海外文学−ア行
ジェフリー・アーチャー 『十四の嘘と真実』永井淳訳 新潮文庫 2003
ご存知エンタメの帝王(?、今、わたしが勝手につけただけ)ジェフリー・アーチャーを初めて読む。
タイトル通り14編の、小洒落た、ちょっとシニカルな、ストーリーテリングなショートストーリー。
ま、電車の中、病院の待合室などでさらさらと読んで、それで終わり・・・
コニー・ウィルス 『犬は勘定に入れません あるいは、消えたヴィクトリア朝花瓶の謎』
大森望訳 早川書房 2004
この小説は、19世紀末、つまりヴィクトリア朝時代に書かれたジェローム・K・ジェローム『ボートの三人男』へのオマージュであり、
タイムトラベルものであり、恋愛小説であり、ミステリーであり、ユーモア小説でもある。
この内容を紹介するのは非常に難しい。
主人公の生きている時代は2057年、つまり近未来。
オックスフォード大学史学科の研究員たちはレイディ・シュラプネル(これが、本人はほとんど出てこないのに、圧倒的な存在感!)
の絶対的命令で「主教の鳥株」をさがすため、降下(タイムトラベル)を繰り返している。
しかし、「主教の鳥株」が、そもそもどんな形状で、どれほどの値打ちがあるものなのか、実はだれも知らない。
タイムラグ(時差ボケ)で思考能力が著しく低下しているネッド・ヘンリーが、
1888年、ヴィクトリア朝時代のオックスフォードに降下した所から、いよいよ物語がはじまる。
ネッドは、野比のび太型のちょっと頼りないキャラ。
でも、ドラえもんは助けにきてくれない。自力で問題を解決しなくては。
ネッドに絡むのは、テレンス青年、ペディック教授、レイディ・シュラプネルの曾々々々祖母にあたるトシー、
その両親、猫のプリンセス・アージュマンド、そして、勘定に入ってない犬のシリル・・・・
いずれも、現代離れしていて(当たり前か)、強烈な個性の持ち主である。
そんな彼・彼女らに振り回されながら、トシーの従姉妹になりすましているヴェリティと助け合いながら、
なんとか使命を果たそうと必死に知恵をしぼり、それがまた裏目にでて・・・
とにかく、やることなすことトンチンカン。
細かな部分でニヤリと笑えるのだが、上っすべりな笑いではない。
イギリス伝統のヒューモア精神が満ち溢れ、どの人物も愛すべき存在として描かれている。
果たして「主教の鳥株」はどこにあるのか。
そして、時空を超えた大捜索に値するほどの貴重品なのか?
ネッドやヴェリティの会話から、細かいミステリーのネタはわかったが、全体を通してのミステリーの答えは、最後までわからなかった。
ほうほう。そうかぁ。と、もう一度最初にもどって、伏線をさがす。
読み直すと、細かな小技、小さな複線、小さな笑いが、あらためてわかってくる。
結果、最初から最後まで読み直してしまった。オチがわかって読むと、ネッドやヴェリティの混乱ぶりが、また、可笑しい。
一応ミステリーだからネタばらしはできないが、タイムトラベルで生じた齟齬や、
どこまで介入できるかといった設定や、それを説明するためあちこちに散らばされた歴史上のエピソードの数々から、筆者の歴史観が透けて見える。
うーん、何と言ったらいいか・・・
だれでも、「ああすればよかった、あのとき、こうしていれば・・・」と、後悔したり、もがいたりすることがあるだろう。
それに対して、「後悔しなくていいんだよ。どうもがいても、歴史の流れは変わらないのだよ。
たとえ、あそこに猫がいなくても、結果は同じなのだから」と言われているような気がする。
これは投げやりなマイナス思考という意味ではない。
「いまを懸命にジタバタ生きていれば、必ず道は開ける。たとえ、そのとき失敗したと思っても、
長い目で見ればちゃんと軌道修正されているから安心して」と、いうおおらかなプラス思考。
そして、読後、「わたしたちは歴史のおおきな潮流に乗っているのだ」という感覚を味わった。
ただ、残念なのは、わたしは一度もイギリスに行ったことがなく、また、あちこちに引用されている英文学や
アガサ・クリスティーなどのミステリーに暗いこと。
これらを読んでいて、さらにオックスフォードやテムズ川、コヴェントリー界隈などを知っていたら、
「細部に宿った神」がはっきり見えてくるだろうになあ・・・
ジャネット・ウィンターソン『オレンジだけが果物じゃない』 岸本佐知子 訳 国書刊行会 2002
自伝的小説。
イギリスの貧しい町の貧しい家庭。カルト的キリスト教を盲信する養母に育てられたジャネット。
この世は悪魔に満ちている。と叫び、賛美歌を歌い、幼い子を伝道師に仕立て上げることしか頭にない頑迷な母。
母の言うがままの父。
成長するにつれて、ジャネットは、学校や一般社会とのあまりのへだたりに混乱し、魂の自立を求めて苦しむ。
女性と愛し合ったジャネットは牧師や教会から激しい糾弾を受け、母が支配していた世界から離れていく。
と、書くと、すさまじくもおどろどろしい内容のようだが、そして事実すさまじい話なのだが、
独特の諧謔的語り口にはある種のユーモアと軽みさえ感じられる。
しかし、ストーリー展開のあいだに挿入される伝説や童話のような章は、筆者が物語り世界に
心の救いを求めた証でもあり、哀切。
ラスト、母との交わらない和解、切り捨てることの出来ない愛がせつない。
ミヒャエル・エンデ 「鏡のなかの鏡 −迷宮ー」 丘沢静也訳 岩波書店 1985
エンデが父の描いた18枚の絵に捧げる30篇からなる短編集。
なんといったらいいのだろう。わたしは途方にくれる。ストーリーのない作品、象徴的な作品、・・・ともちがう。
たとえば----歩いても歩いてもどこへもつかない。歩いている人も、目的地がどこだったかわからない。
それでも、その人は歩き続ける。そういう話。
たとえば----むこうの国とこちらの国は、たがいに存在しないことになっている。あいだにある橋も、
往来する人や物も、相手が存在しないという前提になりたっている。そういう話。
エンデの夢のなかに迷い込んだような、しっかりと確立していたはずの世界がぐにゃりとひんまがったような、
でも、反対側にまわったら、それはただの錯覚だったのかもしれない。そういう話。
あるいは・・・・と説明するのも無意味だろう。橋・花婿・羊・砂漠・壁・駅・・・作中の言葉になにかの意味や
象徴や比喩を汲み取ろうとする努力は徒労に終わる。
この鏡の世界には、なにかがあるはずなのになにもない。
あったと思うものがなくて、ないと言葉にだした瞬間すがたをあらわす。
例えるなら---エッシャーのだまし絵。流れ落ちた水が階段をのぼって、また滝になっておちている。
しかも背景はしっかりした石組みの建造物で、どこにも矛盾も破綻もなさそうに見える。
でも、どこかずれている、計算がくるっている。
また、例えるなら---こっちだと思って歩いたのに、また同じところへ戻ってしまい、自分が迷子になったことに気がつく。
でも、どこから道をまちがったのか、今いる場所がどこなのか、茫然とたちすくむ感覚。
また、例えるなら---映画「2001年宇宙の旅」。またはメビウスの輪。
わたしの説明、あなたはわかりますか? わたしにも、わかりません。
ポール・オースター『偶然の音楽』 柴田元幸 訳 新潮文庫 2001
女房に逃げられた一ヶ月後、亡父の遺産が転がり込んだナッシュは娘を姉に預け、アメリカ中を旅する。
愛車サーブに乗り音楽を聴きながらドライブすることだけが目的のような一年。
偶然、ジャックポッティという若造を拾ったことからナッシュの運命が変わっていく。
ロードムービーかと思って読みすすむと、意外な展開に。
フラワーとストーンの屋敷。石を積む作業。見張りのマークス。
心理劇のようでもあり、運命の歯車の無気味さでもあり、そして、いかにもアメリカ的な小説。
ポール・オースター『幽霊たち』 柴田元幸訳 新潮文庫 1995
私立探偵ブルーはブラックの監視と報告を依頼され引き受ける。
ブラックの住まいの向かい側に部屋も用意され、衣類や必要な道具、日用品もすべて揃っている。
観察を始めるがブラックはなんの変哲もない男だ。緊張しながら監視を続けるうち、次第にいろいろな想念が
ブルーの頭をよぎる。
こいつは一体何者だ? そして、ある種のシンパシー。そして・・・
心理の変化。二人の関係のずれ。不思議な終結。一幕ものの不条理劇を見ているよう。