『ブリキの太鼓』 『ラストサムライ』 『ジョゼと虎と魚たち』 『プリズナーNo6』 『ドラゴン・ヘッド』 『コンフェッション』 『ホテル・ハイビスカス』 『ごめん』 『シッピング・ニュース』 『至福のとき』 『風の絨毯』 『めぐりあう時間たち』 『レオン・完全版』
『ブリキの太鼓』テレビ放映(2004・2・16) 監督: フォルカー・シュレンドルフ 前々からお名前はかねがね、の一作。ようやく見ることが出来たが、かなり衝撃的。 舞台は第一次大戦後のポーランド。3歳になったオスカルは大人たちの醜い姿に嫌悪感を感じ、誕生日の、まさにその日に、 自らの意思で成長を止める。 オスカルは、一日中、誕生プレゼントのブリキの太鼓を離さない。タン。タン。タンタン・・・しかも、無理矢理取り上げようとすると、あ”−−−−−っ!と叫ぶ。 それだけでなく、その声で、ガラスをわってしまうというすごい能力までもっていることが判明。 こうして、オスカルは、なりだけは3歳児のまま、12歳になり、母が死に、16歳になり、初恋をし・・・ そのあいだに、ドイツではナチスの台頭。その狂気の嵐はポーランドも飲み込んでいく。 そういう時代の波に、オスカルの家族も否応なく巻き込まれていく。 ナチスドイツによる最初の侵攻戦で、おじ(もしかして父)が亡くなり、オスカルは軍の慰問団に入る。 そして、ナチスドイツの崩壊。父が殺されたとき(自分を保護してくれた大人たちがいなくなったとき)、 オスカルは太鼓を捨て、成長する決意をする。。。。 子どものなりのまま、大人のすることを、じーーーっと見ている。このアンバランスさ。奇妙さ。居心地の悪さ。 オスカルを演じた子役が、また、顔は普通なのに、よくぞ、というくらいシニカルで、まるで底意地の悪い老人のような目つきなのだ。 後半は、子役ではなく、小人さんか?と思うほど、オトナっぷりが板についている。 ちらちらとしか出てこないのだが、近所に住む知的障害者の、常に無垢であり続ける姿が印象的。 なぜ、オスカルが大人たちに絶望したかというストーリー的にも映像的にもダークだし、かなりグロな部分も。 だから、だれにでもお薦めというわけにはいかないかも。太鼓をたたき続けること、大人になることを拒否しているということが、子どもから見た大人社会批判とも、 抵抗の象徴とも、あるいは、侵略にたいして無抵抗なままだったポーランド国民への痛烈な皮肉とも告発とも・・・・解釈の仕方によっていろいろな意味に取れる。 暗喩に満ちた寓話。じつは、ラストのシーンが一番恐かった。。。。 映画化されたのは原作の2/3くらいらしいが、 このあとに、なにが続くのか・・・・タン・タン・タタン。 あ”−−−−っ
『ラスト・サムライ THE LAST SAMURAI』(2004・1・31) 監督:エドワード・ズイック ネイサン・オールグレン:トム・クルーズ 勝元:渡辺謙 たか:小雪 明治維新から数年、日本は西洋化近代化をめざし駆け足で突き進んでいた。 南北戦争、インディアンの掃討・・・あまりに多くの死を見、心の荒廃したネイサンは、 アメリカの商人と手を結び、軍の近代化をはかろうとする大村に雇われ、はるばる日本にやってくる。 参議の一人である勝元は、形だけの近代化を急ぐあまり武士道精神を忘れている新政府のやり方を苦々しく思っている。 当然、大村をトップとする政府中枢にとって、そんな勝元は煙たい存在であり、邪魔者である。 反動分子として討伐を命ぜられたネイサンは、逆に勝元勢に捕らえられる。 勝元の領土に連れて行かれたネイサンは、自分が殺したサムライの妻であるたかの献身的な看護を受ける。 ネイサンは、人々の慎ましく清らかな暮らしぶりに、次第に身も心も癒されていく。 勝元のもと、領民を守るため、武士道を守るため、常に鍛錬し切磋琢磨するサムライたちの姿に 心動かされたネイサンは、着物を着、木刀をもつ。いつしか、ネイサンはサムライたちの輪の中にいた。 かつて天皇の側近であった勝元だが、叛乱のおそれありとして捕らえられてしまう。 ネイサンは、仲間と協力して勝元を救い出す。そして、いよいよ政府軍が勝元の里を包囲する・・・ とまあ、異文化集団の中に放り込まれた主人公が、戸惑いながらも次第にそこに溶け込み、互いに理解しあい、 失いかけていた誇りとアイデンティティ、そして、生きる意味を取り戻す。 というテーマは、インディアンに始まり、第二次世界大戦では日本軍の特攻精神におどろき、 ベトナム戦争、湾岸戦争、そして現在のイラク・・と異なる文化を持つ異民族との戦いに 悩まされ続けてきたアメリカ人にとっては、とーっても興味深いものであることは間違いない。 細かいところでは背中がムズムズすることもないではないが、セットをはじめ着物や小道具など、 よくぞここまで、と感嘆するほど忠実に再現されている。 それもそのはず、衣装デザインは「「LOTR」と同じ担当者なのだ。 勝元演じる渡辺謙は、古武士のような風格がにじむ。 たかを演じる小雪は、抑えた演技で、ストイックな愛を美しく表現している。 勝元軍の参謀、氏尾を演じる真田広之は、さすがに迫力ある立ち回り。 アルカイックスマイルとかハラキリとか言われ、まるきり理解されなかった 日本の伝統的な精神のあり方や美しい所作が、こうしてアメリカで正しく(?) 理解され広く認識されるようになったのは喜ばしい限りだが、本家本元の日本はいまやすっかりアメリカナイズされ、 たしなみも恥じらいも忘れさられているとは、なんと皮肉なことであろうか。 こうなったら、渡辺謙の「LAST SAMURAI」での助演男優賞と 真田広之主演の「TWILIGHT SAMURAI(たそがれ清兵衛)」外国語映画賞、ダブル受賞を祈り、あわせてサムライ道の復活を祈念しようではないか(苦笑)
『ジョゼと虎と魚たち』(2004・1・26) 原作:田辺聖子 監督:犬童一心 恒夫:妻夫木聡 ジョゼ:池脇千鶴 お気楽大学生の恒夫は、ふとしたことから乳母車に乗ったジョゼ(本名くみこ)と知り合う。 下肢に障害のあるくみこを世間からひた隠しにしようとする頑迷なおばあさんとの二人暮し。 そんなジョゼにとって、早朝、隠れるようにしての散歩と、拾ってきた本を読むことだけが楽しみであり、外へ開かれた小さな窓である。 そんな穴倉のような暮らしに、恒夫が風穴をあける。 他人への警戒心、傷つくのを恐れる気持ちから、わざとつっけんどんにふるまう ジョゼだが 恒夫のノーテンキな好意と無邪気な笑顔に、次第に心を開いていく。 小さなチグハグや別れを経たのち、二人は互いの気持ちを確かめ合う。 しかし、ママゴトのような日々は・・・・「理由は、まあ、いろいろあるけど・・・本当は一つだ。ぼくが逃げた・・・」 ジョゼは障害があるからこそ、気持ちが屈折していたり、逆に、健常者ならなんでもないことを童女のように喜んだりする。 そこが恒夫には新鮮でもあり、守ってあげたいと思い、ある点では重過ぎたりしたのだろう。 しかしジョゼは、いずれ来る別れをどこか覚悟していた。だからこその言動ともとれる。 パーキングエリアでの恒夫の気持ちの揺れ、それを鋭く察したジョゼ。 二人の関係が集約されたシーンは、痛くて、せつない。 (ジョゼにとって初めての恋なのに、ときに恋に慣れた、手練のオンナに見えるときがある。 ひょっとしてこれは愛読書から学んだことかも、と検索したが、入手不可であった。気になる・・・) 爽やかさと、せつなさと、甘さと痛み・・・いろいろな味があとに残る。障害をどうとらえるかで後味がちがってくるような気がするが、 わたしはこの映画を、ちょっとした差異のある男と女が、出会い、惹かれあい、そして別々の道を歩き出すまでの「青春の一こま」「それぞれのイニシエーション」と取りたい。 運動機能の障害は目につくし、大変だろうなと思うし、いたわらなくちゃ、とか、無遠慮に見てはいけないかしら、と、こちらもへんに緊張したりする。 しかし、運動機能以外にもさまざまな障害。。。あるいは国籍とか 所属とか。。。あるいは容貌とか。。。人と人を隔てるもの、差別の対象になったり、逆に過剰にセンチメンタルに反応したり、あるいは感じなくてもいいひけめを本人が感じすぎたり ・・・そういうことは、日常にいっぱいあるよね。 そういう隔てを、ひょいとのりこえた恒夫のノーテンキさ、率直さが、この映画を爽やかにしている。 恒夫は、ジョゼと知り合うことによって、ちがう世間を知った。 おばあさんによって文字通り世間から隠されていたジョゼは、恒夫との出会いによって社会に出ること、自立することを知った。 ネガからポジに大きく変換した。 ポジな世界しか知らなかった恒夫は、ネガな世界の痛みを知り、少し大人になった(はず)。 ジョゼを演じる池脇が、感情の起伏、繊細さ、静かな諦めや覚悟を見事に表現している。 妻夫木の、屈託のない笑顔と、ときたま見せる(自分への)とまどいの表情がいい。 ラスト、恒夫とジョゼ、それぞれのシーン。あれがあるから、救われる。 人を好きになることはせつない。でも、好きになることは止められない。たとえ、小さな痛みを負ったとしても。
『プリズナーNo6』 DVD (2003 9/7) わたしが高校生のとき、NHKで連続放映していた外国製のドラマ。 一人の男が目覚めると、見知らぬ村にきている。洒落た建物、窓には花を飾り、村の中央には広場がある。 村人は平和に散歩している。しかし、どこか人工的で管理された匂いがする。 ここはどこだ。地図を求めるが、店には村の中のおおざっぱな地図しかない。 外へはどう行く?聞いただけで店の主人はけげんな顔をする。突然、広場に音楽が鳴り響く。 そろいのケープを羽織った村人が機械仕掛けのようにたちあがると、遊園地のような楽隊のパレードの後ろをついていく。 男が村の外へ逃げようとすると白い、意志をもったかのようなバルーンが行く手をはばむ。 さらに、何者かが男の思想転換を迫る。どうやら顔を出さないが、裏にボスがいて指令を出しているらしい。 男はさまざまな手段でギリギリとさいなまれ、洗脳されかけるが、なんとか持ちこたえる。 また逃亡をはかる。何度逃げても白いバルーンによって 村に返されてしまう。。。 管理社会。思想の統一を図る国家(?)組織の恐怖。を表現した内容だったが、 最終回を見逃したので、男が無事脱出できたのか、あの村はいったいなんだったのか、 組織は。。。ボスは。。。長いあいだ気になっていた。 そのドラマはイギリス制作の『プリズナーNo6』というもので、DVDになっていると、ネットを通じて教えてもらい、 さらに風太さんが貸してくださった。 主役のパトリック・マックグーハンがアイディアから企画、総指揮、脚本、監督、そして主演まで すべてを務めたドラマだということ、全17話もあるということも、今回初めて知った。 懐かしさと新たな発見で、一篇ずつドキドキしながら見る。 この村は、南は海、北は山に囲まれた、リゾート地のように美しいのどかな風景。 しかし村人は、あちこちに配置された監視カメラ、村内放送、唯一の新聞、行事。。。さまざまなツールを通して、生活すべてが管理されている。 名前ではなく番号で呼ばれている村人は、それぞれ、元はスパイとか軍人とか、なにかしら国家の秘密に近かった人間らしいが、 洗脳の結果、穏やかに村のユートピア生活を享受している。 村を管理する司令塔No2の最大の使命は、No6(重大な情報を持ったまま、スパイを辞任したらしい)から「情報 information」を引き出すこと。 その手段が面白い。女の色仕掛け、いっけん公平そうに見える選挙、そっくりさんとの入れ替わり、カーニバル、 人間チェスから、ついには二人の人間の脳を移行させる装置だとか、目がさめたら西部劇の中に入っていたとか。。。 全17話、よくもまあ、手を変え品を変え、でっちあげたものだと感嘆。 そして、No6の攻略に失敗したNo2はことごとく左遷され、新たなNo2が送り込まれる。つまり、管理者No2も組織の一員として、管理されるサラリーマンなのだ。 装置や機械の中には、笑ってしまうようなものもあるが、30年以上たったいま見ても新鮮なものもあり、 すでにIT時代の到来を予測していたかとおもうほどリアリティがある。 前半の内容は、思想転換を迫る組織とNo6の虚々実々の対決。知能プレイ、心理的駈け引き、思いがけないドンデン返しの連続。 最後の数篇(西部劇とおとぎ話)は、ネタが尽きたのか、コスプレで遊んでいたり、当時流行のヌーベルヴァーグ的カメラワークだったり。 そして、わたしが見逃した最終回。 これまでの経緯から見てストレートには終わらないとは思っていたが。。。 うーん。頭がごちゃになる〜 でも、結局は人間らしさを失わなかった者が生き残るということか。 しかし、あのロケットには驚いた(ネタバレ) 謎はいっぱい残る。しかし、映画化が囁かれているらしい。この長大な(なんせ一篇が50分×17) 連続ドラマをどうまとめるか、CGXなど新たな技術をどう取り入れて映像化するか・・・ なにより内容的には現在みても通じる、いや、管理や同じ思想で無ければ排除される社会のあり方はちっとも変わっていない・・・ 映画化が本当なら、楽しみに待ちたい。
『ドラゴン・ヘッド』 (2003 8/31) 監督 飯田譲治 青木テル 妻夫木聡 瀬戸アコ SAYAKA 高橋ノブオ 山田孝之 修学旅行の高校生をのせた新幹線が突然、衝撃とともに急停止。 意識を取り戻したテル君(妻夫木聡)があたりを見回すと、車内は死屍累々。 「なんなんだよ。どうしちゃったんだよ・・・」車両の外へ出て見ると、後部車両は岩盤に押しつぶされ、しかも前方もふさがっている。 生き残ったのは、瀬戸さん(SAYAKA)ノブ君(TV版ウォーターボーイズの山田孝之)の3人。 しかも、恐怖から精神のバランスを崩したノブ君は、鬼神と化して二人に襲いかかってくる。 ようやく通気坑から脱出してみれば、眼前には、さっきまでの景色とは一変した、生き物の気配さえない、荒涼とした光景が・・・ 火山の爆発か隕石の落下か。。。ようやく見えてきた町は、空爆をうけたうえに火山灰がつもったような景色。 町では略奪と無法と殺戮の果てに、老人たちが若者を皆殺しにし・・・ようやく自衛隊員に助けられたと思ったら、彼らも・・・ と、次から次へと終末的な光景と、「ファイトォ!いっぱーーっつ!」的な(苦笑)危機、また、危機。 普通の、平凡な、弱っちい高校生、二人のあいだに連帯が芽生える。とにかく、東京へ行こう。生き抜くんだ! しかし、かろうじて生き延びた人たちがふきだまっている渋谷駅地下。そこで見たものは・・・ ウズベキスタンに作ったというセットがすごい。死体の人形はちょっと可笑しいのもあったが。。。 そんな状況でもトンネルの電気は消えないの? とか、そんなに長いあいださまよっていて、ヒゲは伸びないの。とか、生き抜くぞ。たって、硫化水素ガスでやられるでしょ。 とか、突っ込みたいところはあるけれど、一難さってまた一難。どこまでいっても荒涼とした光景、狂っていく人々。。。 ばかりの画面を最後まで飽きさせなかったのは、妻夫木クンの 「ひょえーーっ!」「な、なんなんだよ。これ」の、真に迫ったびっくり顔。 SAYAKA・・・学芸会じゃないんだから、さあ、もうちょっと表情つくろうよ。
『コンフェッション』 (2003 8/27) 監督 ジョージ・クルーニー チャック・バリス サム・ロックウェル ペニー ドリュー・バリモア 東西冷戦時代。オンナとヤることと、手っ取り早くのしあがることしか頭にない、 チャックは、これからはテレビの時代だ!とテレビ局に入りこむ。 3人の男のなかから一人を選ぶ「デイトショー」の企画を持ち込んでいる 最中、謎の男にヘッドハンティングされる。 仕事はなんとCIAの秘密工作員。 「デイトショー」(ブラピがちらっと出るサービスも)「新婚ショー」「ゴングショー」 などが続々とヒットし、一躍、売れっ子ディレクター&司会者になる一方で、指令のままに殺し屋稼業も。 華やかな、しかし、薄っぺらなテレビの仕事。 危険と隣り合わせ、殺すか殺されるか、だれが味方か裏切り者かさえわからない裏の世界。 そのギャップはしだいにチャックを苦しめ、やがて精神のバランスを崩す。 ここらあたりの妄想と現実のいりまじった映像は凄味があった。 そして、その妄想や夢の中に、彼の人格を形成したらしい幼少期の記憶も。 視聴率さえとれれば、笑いさえとれれば、お下劣だろうがお下品だろうがへいっちゃら。 大衆に迎合し、大衆をバカにし、視聴者の知性をどんどん低下させていくテレビマンが 実はスパイだった。。。。そんなバカな! 実話に基づくというが・・・ホンマかいな。 ほんとなら、めちゃ恐い。 しかも33人も殺していたというから、狂ってるよ>アメリカ。 いや、日本だってひょっとして・・・・ 頭はけっしてよくないけど、チャックと一緒に番組のヒットを喜び、心から笑いあうペニーを演じる ドリュー・バリモアがかわいい。日のあたる表の世界を象徴するような笑顔。 女スパイにジュリア・ロバーツ。これはちょっと、ねえ・・・・ チャックをヘッドハンティングしたボス役のジョージ・クルーニー。初監督作品だそうだ。 生まれるのが遅すぎたね、ジョージ。2昔前なら、女性ファンが紅涙をしぼるようなメロドラマ向けのハンサムなのにね。 チャックを演じるサム・ロックウェウル。番組の成功に調子に乗り、考えもなしにスパイになり、次第に殺しの快感におぼれ、 やがて見えない恐怖におびえだす、振幅の大きい気持ちの変化を好演。
『ホテル・ハイビスカス』 (2003 8/7) 監督 中江裕司 恵美子 蔵下穂波 父ちゃん 照屋政雄 母ちゃん 余貴美子 おばあ 平良とみ 古びたホテル・ハイビスカス(客室が一つだけ)。一家は、くわえタバコのおばあを中心にすえた、インターナショナルファミリー。 天衣無縫・天真爛漫・・・というか、生まれたまんま、天然の子ども、小学校3年生の恵美子。 閑古鳥の鳴くビリヤードで昼寝の父ちゃんは三線の名人。バー勤めの母ちゃんは美人で陽気。 母ちゃんと黒人米兵とのハーフ、ケンジにぃにぃ(ケミストリーになりそこなったネスミス)。 白人米兵とのハーフ、サチコねぇねぇ。。。。そして、ヤギ!みんな、働き者で陽気。底抜けにお人好しで、あったかくて、個性的。 恵美子は、道で行き倒れていた青年を拾ったり、キジムナーに会いたくて基地に忍び込んだり、 父ちゃんに手紙を届けるため一人でバスに乗って遠い町まで出かけたり、 同級生とケンカをしたり、叱られてトボトボ歩いているとき死んだ叔母さんに会ったり・・・・ そんな元気いっぱいの、ちょっと不思議な、夏の日々が綴られている。 「ナビィの恋」の中江裕司監督作品というので期待も持って見に行ったが、 期待以上の面白さ。突き抜けた明るさ。前作よりひねりがないというか、素直でここちよい。 母ちゃん父ちゃんのおおらかさがいい。 沖縄訛と三線が、独特のリズムで酔わせてくれる。 キジムナー伝説や先祖の魂を迎えるお盆行事、など、今も、自然と人、過去と現代(基地も含めて)が 隣り合って暮らしている風土性が生きている。 そして、なんといってもオーディションで採用されたという、小学校3年生の少女、恵美子がいい。この子で決まり!という映画。 同級生とケンカして石を投げた恵美子を叱る父ちゃんの言葉。「なぐったり石を投げたりしてはいけないのよ。ケンカの大きいのが戦争よ」 沖縄の人たちの底抜けの陽気さと笑顔。でも、ただのお人よしや諦めではない。人を丸ごと受け止め、引き受けてしまう強さが底にある。 見終わって元気になる映画。きもちよくなる映画。・・なのに、観客3人(苦笑)
『ごめん』 (2003 7/14 ビデオ) 原作 ひこ田中 監督 冨樫森 セイ 久野雅弘 セイは小学校六年生。国語の授業中、体の一部が勝手に元気になり、ついに「おしる」を漏らしてしまう。 (元気になるのはともかく・・・ここらあたりのメカニズムが理解不能だが・・・) 母親(河合美智子)は「大人になったのね!」と祝福。(これは理解できる) 以来、なにも手につかずボンヤリとしていたセイは、お使いの途中で一人の少女に一目惚れ。 わずかな手がかりを元に訪ねあてた少女はなんと中学2年生。。。。 セイの表情がいい。どこにでもいる。けっしてモテるタイプではない。不器用で、ドンくさい。 口を半開きにしたあたりなど、性に目覚めて、自分で自分がわからなくなっているリアリティーそのもの それが後半、少女に振り回されながらも、なりふり構わず懸命に自転車をこぎ、思いを伝えようとするあたりから、男っぷりがあがってくる。 恋の力ってすごいのね。 学校の中、通学路、子どもたちがいい。関西弁がうまく生きている。先生がいじめられっ子に言う科白。「やられたら、やりかえせ。それができないなら、うまく逃げろ」 この生活の智恵的リアリティは、やはり関西文化か・・・ それにつけても、この時期の少年って大変なんだね。 ここでつまづくから、いろんな事件がおきるんだろうねえ。。。こういう風に家族や友人と、あっけらかんと語れたら、なんとか乗りこえられるのに、ねえ・・・ 青春の入り口に立った子どもたちの性を、一歩誤まればナマナマしくなるところ、実に爽やかに描いて、好感。
『シッピング・ニュース』 (2003 7/9 ビデオ) 監督 ラッセ・ハルストレム クオイル ケビン・スペイシー ウェイヴィ ジュリアン・ムーア 叔母 ジュディ・デンチ 小さいときから自信喪失の固まり。世間の片隅で息をひそめるように生きてきた男の車に ケバイ女がいきなり飛び込んできた。「ねえ、わたしと結婚して」男が有頂天になったのも束の間、女は生まれた娘も顧みず、やりたい放題。 両親自殺の報がもたらされた日、妻は駆け落ちの途中で事故死。 さらに娘を闇の養子縁組で売り飛ばしていたことも判明。 両親の葬儀で初めて会った叔母に引き立てられるように、男は新天地を求めて、 父祖の地、ニューファンドランド島へ娘とともに移住する。 40年もほったらかしの古い家に住まいをさだめ、酷寒の小さな島で地元新聞社に職を得る。 周りの人々に支えられ前向きに生きようとする一方で、三人の住む家に亡霊の影が。。。 そして、先祖にまつわる因縁話や叔母の 呪われた秘密が、しだいにあきらかになる。 ・・・嵐の襲来。そして翌朝、忌まわしい記憶すべてを吹き払うように、 空が晴れ渡っていた。 男のリアルな人生と一族の呪いのファンタジー、島の人たちのリアルとおとぎ話のようなエピソードが ミックスされて、独特の雰囲気が。。。 ケビン・スペイシー。妻の浮気に抗議すらできないような、卑屈でおどおどした表情から、 初めて書いた記事が認められ、傷心の未亡人との出会うことを通して、 心が解放される。 ジュリアン・ムーア。「ハンニバル」のときは、前作のジョディ・フォスターと つい比較して、ああ、やっぱり代役よね、というイメージ。この映画でも、それほどのインパクトはない。 やっぱり、「めぐりあう時間たち」で、化けたね。 近く公開される「エデンの彼方に」も楽しみ。 この映画をひきしめていたのが、叔母ジュディ・デンチの存在。登場した瞬間から、なにかあるぞ! と思ったけど、やっぱり。という感じ。
『至福のとき』 (2003 7/8 ビデオ) 監督 チャン・イーモウ そろそろ初老にさしかかっているチャウは、子連れ女との再婚にこぎつけようとしていた。 女には、前夫の連れ子、盲目の少女がいた。 公園に廃棄されたバスを「至福の間」としてラブホに転用しているだけなのに、 自分はホテルの社長だと言ってしまったチャウに、 女は言う。「あの子がいたら結婚できない。あんたのホテルで使って」 ホテルなんて真っ赤な嘘。しかし、少女をあの継母の元へ返すにはしのびない。 なんとか少女の居場所をみつけてやろうと、嘘に嘘を重ねるチャウ。 仲間たちもない智恵をしぼって協力する。ここは柴又葛飾か、という下町庶民の人情と笑い。 次第に、真の親子のように心を通わせあう二人。 少女にはわかっていた。みんなの嘘が・・・ 優しい嘘は人を幸せにするのです。あんまり深く考えないで、さらさらと見る映画。
『風の絨毯』 イラン・日本合作 (2003 7/6) 監督 カマル・タブリーズィー アキラ 榎木孝明 サクラ 柳生美結 ルーズベ ファルボー・アフマジュー 飛騨高山。高山祭りの山車を飾る垂れ幕にペルシャ絨毯を、と依頼を受けた絨毯商アキラ。 それは妻と娘サクラの夢でもあった。しかし、娘サクラの眼前で母(工藤夕貴)が事故死。 アキラはサクラを連れて、完成した絨毯を受け取りにイランへ飛ぶ。 古くからの友人、仲買人アクバルと妻(この妻がいい)はアキラを歓待し、 母の死によるショックと、見知らぬ土地への緊張から、固い表情のサクラを気づかう。 しかし、絨毯工房の主人は精力絶倫・多角経営のあまり、注文を受けたことを忘れていた。 編み始めてさえもいないって! 祭りに間に合わない! どうしてくれる! アクバルの家に出入りする少年ルーズベは、サクラをなぐさめるつもりで、ちょっとした騒ぎをひきおこしてしまう。 そのルーズベの涙の提案で、絨毯の突貫作業が始まる。 人々に囲まれ、次第に心をひらき笑顔が浮かぶようになったサクラ。しかし、絨毯の完成はルーズべとサクラの別れでも。。。 キアロスタミの盟友の監督。なんたって、イラン!と期待してみたのだが、なんちゅーか・・・ 実話を元にしたそうで・・・あまりにひねりがなさすぎ。 たしかにイランの美しい建物や文化の紹介にはなっているけど・・・ 高山市観光協会・イラン観光協会・ペルシャ絨毯振興会協賛的映画。
『めぐりあう時間たち』 (2003 6/27) 監督 スティーブン・ダルドリー ヴァージニア・ウルフ ニコール・キッドマン ローラ・ブラウン ジュリアン・ムーア クラリッサ・ヴォーン メリル・ストリープ リチャード エド・ハリス 1923年。作家ヴァージニア・ウルフは、精神のバランスを 崩し、ロンドン郊外、サセックスで 療養しながら『ミセス・ダロウェイ』を執筆中。 ダロウェイ夫人の一日を描きながら、そこに生・死・人生・・すべてを投入しようという構想だ。 作品世界に神経を没入させている最中に、姉が子どもたちを連れてやってきた。 「おばさんは、自分の人生と作品世界、二つの人生と生きているのよ」 姉の訪問は、ヴァージニアの日常に変化と刺激をもたらした。そして・・・ 1951年。ロサンゼルス。郊外の洒落た家。二人目の子を身ごもっているローラ・ブラウンは、夫を送り出したあと、息子と一緒に夫の誕生ケーキを用意する。 手入れの行き届いた庭。それぞれに車。夫は、美しい妻を心から愛し、家庭を大事にしている。 しかし、夫にむけて笑みを浮かべた頬は、次の瞬間、こわばっている。 ケーキにデコレーション(すごい色!)をするローラの目は、どこかしら遠くの闇を見ているようだ。 そんなママの空気を敏感に感じ、怯える坊や。 2001年、ニューヨーク。女性パートナーと暮らしている編集者クラリッサは、 詩人、リチャードの受賞パーティーの準備をしている。 「だれのためのパーティーだ? 君は誰のために生きているんだ?」 一番輝いていた時間を共に過ごした友、今はしのびよる死の影におびえるエイズ患者、 リチャードは、クラリッサにとって、なくてはならない存在であり、 また緊張を強いる存在でもある。そして・・・ まったく違う時代に生きる女性三人の一日が、重層的に、まるで輪唱のように、荘厳なミサ曲のよう響きあって描かれていく。 底に流れるのは「死」「喪失」「焦燥感」 「生きることの重さ」。。。 やがて、時空を越えているはずの三人の「時」がめぐりあう。 ミステリーではないが、種明かしはしないでおこう。 ヴァージニア・ウルフを、ニコール・キッドマンが熱演。というか、ニコール・キッドマンには見えない。 つけ鼻やメイクだけでなく、全存在が、精神を病んだ中年作家になっている。 辛うじて心の均衡を保とうと張り詰めた状態のローラ・ブラウンを演じるジュリアン・ムーアが、こわいほど美しい。 メリル・ストリープ。いつもの知的で素敵な笑顔が、次の瞬間、糸が切れたように気持ちを乱す、その迫力。 三人の女性それぞれの、不安定な心理、揺れ、おびえ、毛が逆立つような精神状態が ひたひたと伝わってくる。 今は平静に見ていられるが、10年前だったら、持っていかれたかもしれない・・・ そして・・・うちの夫だったら、はじまって30分で居眠りをはじめ、40分でイビキをかきだすこと 請け合い。 つまらない、というのではない。 男性には、理解できないかも。 少なくともブラウン氏のように善良で平凡で、平板な精神の持ち主には、まったく想像もできない精神世界だろう。 ちょっと思ったのは、「本」という小道具の使われ方。 ヴァージニア・ウルフが書いている「本」。リチャードの書いた「本」。どちらも観客には読めない。 「花を買いに行く」という一節。リチャードの「本」を語る、登場人物たちの表情。内容はしらなくても、それだけで伝わるのは、演出の冴えではないだろうか。 そうそう、「死」「生きることの重さ」が通底していたはずなのに、見終わったあとは重くない。 なんだか「生きること」に少し希望と勇気がわいてくるような、そんな映画です。
『レオン・完全版』1996 (2003年5月 ビデオ) 監督 リュック・ベンソン レオン ジャン・レノ マチルダ ナタリー・ポートマン 麻薬捜査官 ゲイリー・オールドマン イタリア系不法移民レオンはプロの殺し屋。 ある日、麻薬取引にからんで、 アパートの隣室の家族が皆殺しになった。 たまたまレオンのために牛乳パックを買いにでかけて難を免れたマチルダは、気丈にも、殺人現場の前を通り過ぎてレオンの部屋に。 「わたしに、殺しを教えて」 「復讐で人を殺しても、なにも戻らない。忘れるんだ」 いくらレオンがなだめても、口達者なマチルダにはかなわない。 こうして12歳のマチルダと、40過ぎたレオンの奇妙な同居生活が始まった。 家族を殺した犯人は、麻薬中毒になり、裏取引にかかわっていた麻薬取締官だった。 マチルダを巻き込みたくないと、密かに掃除をしていくレオン。 しかし、向こう見ずなマチルダがとった行動から、逆に二人は追いつめられ・・・壮絶な銃撃戦の結果・・・ 「レオン、愛してる」と無邪気にせまるマチルダに 閉口しながらも、奇妙な連帯感を抱くレオン。 小さい大人マチルダと、なりはデカイのに子どものようにウブなレオン。 ここが何度見ても、可笑しくも哀しい。 「シベールの日曜日」以来、12歳の少女がすでに持つ魔性の女と 40歳の男の中のいつまでも成長しない子どもの組み合わせ。だが、 いわゆるロリコンのようないやらしさ、性的匂いがない。 孤独で殺風景な暮らしの中にいきなり飛び込んできた小動物のようなマチルダ。 その存在がくすぐったいような、困ったような。。。 ジャン・レノのドギマギ感が見事。 麻薬捜査官が、迫真(?!)の名演技。 完全版は22分増えている。レオンが若いころの自分の恋のいきさつを語る場面以外は、 はっきり見分けがつかなかったが、二人が心を通わす場面が 多くなっていたよーな。