日本文学 ー は行



橋本治  『蝶のゆくえ』    集英社  2004

子ども虐待死をとりあげた「ふらんだーすの犬」
26歳という微妙な年齢にさしかかったOL「ごはん」
など、社会の片隅をきりとった短編6編。
うーーー、うまい、痛い。
だが、なんというか、作品とわたしのあいだが、なにか薄い膜でへだてられているような気がして、かなりイライラした。
やっぱり、橋本は、頭のいいひとなんだなあ。
頭のいい人が、頭で書いている。そんな気がして、入れない。
というか、筆者が人物たちを「神の目」で見ていて、心から寄り添ってない気がする。


畠中恵 『ねこのばば』    新潮社  2004

あちこちの読書サイトで評判がいい『しゃばけ』シリーズの第三弾。

裕福な商家で大甘に育てられた病弱な若旦那、一太郎。そのお守りをする手代は、実は妖怪たち。
妖怪といっても、おどろ、ではなく、人になついて(?)いる、かわいい系。
18歳にもなって色恋の一つも知らない世間知らずな坊ちゃんと、忠義は人一倍だが、
どっか価値観がずれている妖たちが 一緒に事件の謎解きをする。という趣向の短編5編。
面白いのだ。キャラも立っている。すらすら読めるのだが、なんていうか・・・
この人の文体のリズムが、わたしの生理と微妙に合わない。
それも、硬質とかおちゃらけとか全然違う文体なら、気にならないのかもしれないが、
読みやすい、ふだん読みなれた小説のスタイルだから、内容の面白さより、そっちが気になってしかたがない。
独立して読めるはず、と、『しゃばけ』『ぬしさまへ』を飛び越えて読んだせいか?


畠中恵  『しゃばけ』  新潮文庫  2004

順序を逆に読んでしまった。「ねこのばば」で、いまいち見えてこなかったところが見えてきた。
やっぱり,”ものには順序がある“ということをあらためて知った次第。

まず、長崎屋の一人息子一太郎の病弱ぶり、両親の大甘ぶり、手代がじつは妖であること、
一太郎の周辺に鳴家などの妖がぞろぞろ出てくること、など、登場人物の描写が繰り返し繰り返し出てくる。
かなり丁寧、というか少ししつこいと思っていたのだが、後半になって、ああ、伏線だったのか、とわかる。
つぎに、縦糸となっているのが連続殺人事件なのだが、謎ときをしたくとも、病弱な一太郎は家からほとんど出ることができない。
妖や幼なじみからの情報をもとに推理するしかない。
つまり、定点観測型のミステリー。
事件の謎をとき、一太郎自身を救うことになるのが、一太郎のキャラ・人生哲学である「人に対する優しさ。自分が今あることへの畏れ。謙虚さ」
そして、こんな大金持ちの大甘に育った虚弱児なのに、芯の芯のところで強さを持っている。
それがどこから来ているのか、一太郎の生まれ育ちの謎。家族の愛。それが横糸。
ただ、ミステリー、謎解きとして読むと、ちょいと弱い印象が。。。。
江戸人情もの+妖怪変化+少年向けコミックの味付け。といったところか。


東野圭吾  『容疑者Xの献身』

直木賞受賞作品
最初に殺人犯は、読者にわかっている。
その犯罪を隠蔽するための協力者があらわれ、犯人は、その指示通りに動く。
謎解きは、犯人さがしでも、犯行動機でもなく、協力者のしかけた工作をどう解くか。
であるが・・・ミステリーの構図としては成功しているのかもしれないが、そもそもの設定が、どうしても受け入れられなかった。
協力者の献身って?! これほど深い愛があるだろうかって?!!
いま、深い を 不快 と変換しそうになったが、まさしく、読後、不快で不快で寝付けなかった。
これは、自己満足でしょ。相手を逆に苦しめてるでしょ。こんなのヤダ!
女をバカにしてんじゃないの?
でもって、究極の目的は、隠遁生活ができるってことじゃないの?!
献身というお芝居仕立てで。


藤沢周平

  『橋ものがたり』(新潮文庫 1983)

  『時雨のあと』(新潮文庫 1982)

  『時雨みち』(新潮文庫 1984)

  『用心棒日月抄』(新潮文庫 1980)

  『孤剣―用心棒日月抄―』(新潮文庫 1984)

  『刺客―用心棒日月抄―』(新潮文庫 1987)

  『麦屋町昼下がり』(文春文庫 1992)

  『蝉しぐれ』(文春文庫 1991)

  『雪明かり』(講談社文庫  1979)

  『竹光始末』  (新潮文庫   1981)

  『隠し剣 孤影抄』 (文春文庫  2004 新装版)


藤原伊織  『蚊トンボ白鬚の冒険』  講談社文庫 

  俺(20歳の水道工事職人)の頭に蚊トンボが激突、そのまま、脳内に住み着いた。
白鬚と名乗る蚊トンボは、瞬間的に俺の運動能力を千倍に高めたり、本人が忘れたような記憶野から
情報を集めたりすることができるらしい。
つまり、蚊トンボと俺は、二人三脚でスーパーマン的力を持った。という意表をつく設定である。
が、その時点で、蚊トンボの命があるあいだの期間限定、しかも、かなり短いあいだのジェットコースターミステリーだと
予想がつくが、二人(といっても、結局は宿主である俺のキャラなのだが)のキャラがいいので、すいすい引き込まれて読む。

未読だが「テロリストのパラソル」など重い社会派ミステリー作家というイメージだったが、こういうライトなものも書くんだね。


リリー・フランキー  『東京タワー  オカンとボク、時々、オトン』   扶桑社  2005
オトンとオカンは、ボクが3歳のとき、別居した。
親子三人で一緒にすごした記憶は3歳でとまっている。
そのあと、オカンは懸命に働き、自分のものはなにも買わなくても、ボクには着る物、食べるもの、不自由させないようにしてくれていた。
高校、大学と親元を離れてからは、毎月の仕送り、こまめな手紙。
しかし、ボクは学業より自堕落な生活に流れ、夢らしいものもいつのまにか消え、なんの展望もひらけず、
食うや食わず、借金まみれの暮らしをし・・・
どうにか暮らしが成り立つようになったころ、働きづめに働いてきたオカンは病魔に冒され、小さくなっていた。
東京に来るね? 一緒に住もうね? そしたら、行こうかねえ。
こうして、20年ぶりに母子が向かい合うことになる。 お互い照れくさいようなくすぐったいような・・・・
しかし、オカンはあっというまに東京の暮らし、ボクを取り巻く人々の輪に溶け込んでいった。
オトンはというと、進学、オカンの病気、など折々に現れはするが、まったくマイペースな人。
しかも、ボクはオトンの職業を知らない。
母と息子、父と息子、別居はしても最後まで籍を抜かなかった夫婦の、奇妙で微妙なあり方・・・が、
ときに飄々と、ときにじんわり、ときにユーモラスに描き出されている。
うちより、それぞれ10歳ほど年長の親子だから、景色や背景はなじみがあるけど、少し懐かしい。
しかし、時代背景や住む土地、暮し向きはちがっても、そこに流れる親子の情は、おそらく古今東西、変わらない心情だろう。
ここに描かれているのは、極めて私的な景色だが、とても普遍的な景色でもある。

”若いものはおなかがすいているに決まっている”という思い込みから、来る人来る人
(相手が社長だろうがプータローだろうが、原稿とりのバイトだろうが)に食事を勧め、さらに、だれがきてもいいように食事をたくさん用意するオカン。
実際、オカンの飯目当てに、オカンと飲んだり食べたりすることを楽しみに、大勢の若者が集まってきたらしい。
いいなあ、こういうのって、いいなあ。

「わたしが死んだら読むように」と用意してあったオカンの遺書。
わかるわかる。言いたいこと、すごくわかるよ。
いいなあ、全国のお母さん代表@オカン、だなあ。
オトンのマイペースぶりもワガママぶりも、愛情表現がうまくできない不器用さゆえ。
哀しいなあ、オトンって。

けしてメジャーな、文学史に残るような名作ではないかもしれないが、読みおわって、とても癒された。


古川日出男 『アラビアの夜の種族』角川書店 2001

この本の粗筋を書くことはできない。
これから読む読者のために、というより、そもそも粗筋をまとめようとすること自体が野暮、愚の骨頂であり、
この本はそれを拒否している。
が、あえて言うとすれば、災厄の書を語る語り手と、それを聞く聞き手がいる。
と書くと、まるで「千夜一夜」のようだが、語り手も聞き手も、王でも妃でもない。
では、だれが、なぜ、どういういきさつで語りはじめたのか、その物語の内容は、そして語り終えたあと・・・と、
まるでロシアの人形のように何層にも虚構が仕組まれている。
だから、「小説とは虚構。想像の産物」 ということが認められない人、実体のないものをイメージできない人には
この本は薦められない。
小説を読むことで、人生のなにか得よう、という人にもこの本は薦められない。この本は読者を選ぶ。
うーーん、どう形容したらいいのだろう。
4次元のファンタジー。壮大なアラベスク。荒唐無稽な曼荼羅。世にも不思議な蜃気楼。


古川日出男  『アビシニアン』  幻冬舎 2000

じつを言うと、一章はかなりきつかった。挫折しそうだった。
中学卒業と同時に、すべてを拒否し、放棄し、都会の真ん中の公園の一部、手付かずの自然が保護されているという
”バードサンクチュアリ”に逃避し、飼い猫のアビシニアンと暮らす少女。
家庭、学校、友人・・・社会。文明。あらゆるものを拒絶する姿勢が痛かった。
まるで野生動物のように五感を研ぎ澄まして生きる。
なのに、コンビニやファミレスの食料、公園利用者の忘れ物・・・つまり都会生活の恩恵をこうむっている。この矛盾。
言葉を忘れ、ついには文字を理解することができなくなる。
と言いながら、この少女の使う言葉は(一人称で描かれている)とうてい並みの女の子が使うとは思えない、高等な、多様な語彙である。 そのバランスの悪さ、もちろん、古川は、計算のうえで使っているのだが・・・それが、なんとも居心地が悪かった。
つまり、筆者のたくらみに、乗り切れなかった。

が、2章からは、そのたくらみがわかってきた。
2章は、寡黙で控えめな青年の一人称。
彼は、突然、網膜に光を感じると、猛烈な頭痛と吐き気などに悩まされるという持病があり、
言葉で表現できない思いを、文字で表現しようと格闘している。
感覚の異常を文字で表現することで、どうにかバランスをとって、周囲から信頼され、円滑な社会生活を維持している。
つまり、文字を捨てた少女とは対極にある。
その二人が、書き言葉ではなく、耳から伝わる言葉”語り”を通して、互いの足りない部分を補い、さらに世界を深めていく。
つまり、古川の世界にどこまで共感できるか、乗れるか、というところなのだが、
正直、『アビシニアン』は、現代社会を舞台にしているから、リアリティが強い分、たくらみに乗り切れない恨みが残った。
『アラビア・・・』のほうが、スケールの点でも、たくらみの巧緻さでも大きく勝っていた。というのが実感。




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