佐々木禎子さんの父上、繁夫さんが亡くなった。
直接お会いしたことはないが、資料や報道の映像などを通してシンパシーを感じていた。
地に足をつけた生き方。お人好しで、疑うことを知らない、でしゃばったり目立つことを恥じる。
そういう、日本の一昔前の庶民の典型のような印象をもっていた。
2・3年前お母さんが亡くなり、去年河本一郎氏が亡くなり、こうして、関係者があとを追うように続けて彼岸に旅立つ。
わたしのデビュー作はNF『折り鶴は世界にはばたいた』
原爆の子の像のモデル、佐々木禎子の折り鶴のルーツを探り、同時に
像建立後、折り鶴が平和祈願という意味を持って、世界にひろがっていった軌跡をおうもの。
単行本として世に出た本はこれ一冊。経歴を見れば、そしてこの作品を読めば、だれだって、筆者はヒロシマに所縁があるか、
反核平和に意識のある人にちがいない、と思うだろう。あるいは、ルーツだった愛知淑徳高校卒業生か、と。
わたしが第三者でもそう思う。
ところが、わたしはこの本と関わる前は、地理的にも気持ちの上でもヒロシマから遠いところにいた。
平和活動に無縁だった。そもそも活動と名のつくもの一切から遠かった。
某先輩作家から「これまでのこの手の本にない、ニュートラルな姿勢」と評されたが、そりゃあそうだ。
そもそも、ニュートラル、まっさらだったのだから。
それほどヒロシマに無縁だったわたしが、ほんのわずかな手がかりをわたされただけで、書くハメにおちいった。
資料調べも初対面の人に会って取材することも、なにもかも初体験。無手勝流。それはそれは難しかったが、面白かった。
書くこと。これはまあ、10年も同人に所属していたし、企画をいただいたきっかけも編集者が同人誌掲載作品に目をとめて・・
と言ってくださったのだから、それなりの自負はある。うぬぼれ? これくらいは言わせてくれ(爆)。
それよりなにより、難しかったのはヒロシマの心に近づくこと。平和を祈って活動する子どもの純真な心に近づくこと。
わたしは、遠い遠い距離を縮めなければならなかった。
この本を出して4年。実はあまり販促活動をしてこなかった。なんせ無名の新人の処女出版だ。
この本を持って講演をするなりして、自分と本を売りこんだほうがよかったのだろうが
・・・なにもしなかった。いやだった。反戦平和作家とレッテルを貼られるのを警戒していた。
拙著の出版記念パーティーに駆けつけてくださった那須正幹氏が
「普通、”被爆者”というが、放射線を浴びた、という意味では”被曝”が正しい。
ヒロシマナガサキの被爆者より、ビキニ環礁、チェルノブイリその他、・・・その後の被曝者の方が数が勝っている。
被曝者など全部をひっくるめて、いまでは”ヒバクシャ”と片仮名で表している。
わしもヒバクシャだ。この本を書いたうみのもヒバクシャだ。この本を読んだ諸君もヒバクシャだ」
と、おっしゃった。その場に居合わせた仲間は、げっ、という顔をしていた。わたしも内心、げっ(笑)
しかし、やはり核の問題は頭のどこかに棲みついて離れない。
例えば映画。例えば小説。安易に核を扱った作品を見ると腹が立った。
やっぱり、わたしもヒバクシャになったのだろうか・・・
サイトを開いた。
これまでずっとHNで通してきたから、わたしの正体をご存知ない方も多かったと思うが、
これをきっかけに拙著を読んでくださった方から感想を寄せられた。
嬉しかった。しかし、サイトを開く前も開いてからも、感想が寄せられるのは大人ばかりだ。
書く前に、子ども相手だからと小手先の甘い本にはしたくない、という思いがあったから
冷戦や核開発、アメリカの核意識にまで踏みこんで書いた。そこは、はずせなかった。
ただし、読書力のある子でないと難しいかもしれないとも思った。
ROYさんから「クラスの子どもたちにはむずかしかった」と率直な感想をいただいた。やっぱり・・・
去年のはじめごろ、たまたま編集者となにかの連絡をしたとき、
「やっぱりあの本、子どもには難しいかもね。もっと優しい絵本にしたらどうだろう」と、
何気なく話したことから、絵本版の制作が始まった。
もう元ネタはしっかり仕込んである。新たに取材に行く必要もない。短く優しい表現にさえすれば・・・
甘かった。
枚数にすれば『折り鶴・・』の1/10。しかし、難しかった。こんなに難しいとは思っても見なかった。
なにが難しいって、ヒロシマの心に近づくこと。サダコや家族や友人の心に近づくこと。
昨年末、ベトナムに旅をした。いわゆるパックツアー。
到着日の朝、ホテルのまわりを散歩した。わたしは、知らない町を歩くのが好きだ。
緑色の制服を着、軽機関銃を携えた青年が立っている。
「声をかけると、Policeだと言う。
「Japaniese tourist?」と聞くので、そうだ、と答えると、まだ二十歳そこそこのPoliceは
「Hiroshima Nagasaki Bomb」と言うではないか。
しかも、かなり流暢な英語。わたしのような片言ではなく、ちゃんと文章になっているし、アジアングリッシュではないのだ。
二重に驚きつつ、「Yes. I know」と答えると、これが情けないことに正確には聞き取れなかったのだが
「原爆はいけないことだ。ああいうことが繰り返されてはいけない。平和にならなければ」
というような意味のことを話しかけてきたのだ!!!
いろいろな意味でショッキングだった。
ようやく復興してきたとはいえ、まだまだ貧しい国のお巡りさんが、日本と聞いただけでヒロシマナガサキを連想し、世界平和を語る。
日本人の中に、「世界平和」という言葉をすらっと口に出せる人がどれだけいるだろうか。
ついこのあいだまで戦禍にまみれ、いまだ戦争の後遺症と見られる肢体不自由な人も多い国と、
すっかり平和ボケしてしまった日本。
それにしても、取材中も感じたが、唯一の被爆国でありながら、原水禁と原水協の不毛の対立、
日教組と文部省の対立・・・こういったものが、ベトナムの若いお巡りさんがすらっと言えるような
「原爆はいけないことだ。ああいうことが繰り返されてはいけない。平和にならなければ」という言葉を
すらっと言えない日本にしてきた一因ではないだろうか。なんと不毛な年月だったことだろう。
簡単な言葉ではないか。共通の思いではないか。語らねば。伝えねば。
ずっと逃げてきた、書いていたのに逃げていたことに、向き合わなければ。
たった20枚足らずの原稿を書き直し書き直し、何度書き直したかわからないくらい書き直して、ようやくOKがでた。
原稿を読み直せば、ものすごく簡単で基本的なこと。
サダコの思い、家族の思い、友人の思いに近づけるかどうか。だけだったのだ。
OKがでた翌日、禎子の父死去のニュース。
伝えなければ。語らねば。向き合わなければ。
重い、重い課題だ。