「いまどき若者って?!」(2002年8月)


    いまどきの若者は、人とのコミュニケーションがとれない。会話や討議ができない。
    ふわふわと心地よくその日を過ごすことしか考えてないようだ。物事を深く考える
    ということをしてないのではないか。・・・・という声を耳にする。
    「いまどきの若者は・・・」という年寄りの嘆きは、すでに古代エジプトのころから記録が
    残っているというから、これはもう永遠のテーマかもしれない。
    わたしも、いまどき若者や管理教育に批判的だった。
    わたしが若い頃は・・・いまどきの子どもは・・・教育現場は・・・と
    他人事のように見ていた。
    数年前のこと。
    制服、スカート丈などなど、校則が厳しすぎることが問題になったことがあった。
    その問題を扱ったTVで鴻上尚二が語るのを聞いて、それこそ仰天した。
    曰く、
    「校則が厳しくなったのは、学園紛争のあとからだ。団塊の世代のせいで管理教育が始まった」と。
    当時流行っていたCMで「それって俺のせい・・」というコピーがあったが、文字通り、
    それってわたしたちのせい???
    それ以来、学校教育、社会、家庭、世代・・・などなどの有機的関連が気になりだした。
    では、われわれ団塊の世代とはどういう世代なのか。
    それが、いまどき若者にどういう影響なり関連なりがあるのか・・・
    まずは、安保の年までさかのぼってみよう。

  • 1960年。安保の年。二重橋で樺美智子さんが圧死。
     ようやく日本が復興してきたばかりで、世の中全体貧しかったし、大学生は今とは比べ物に
    ならないほど少数だった。
     
  • 1965年ごろから、インターン制度の改善要求を掲げる東大医学部紛争・使途不明金など
    経営体質を問う日大紛争・空港建設をめぐる成田闘争・ベトナム反戦(べ平連ができた年だ)
    ・来るべき70年安保に備えてのヘゲモニー争い ・・・
    などなどがミックスされ同時多発的に各地で学園紛争が起こった。
     ここらあたりの運動については、大衆の支持があった。政治の時代。
    細かいことを言うと、
    団塊の世代は1947年生まれ(つまり、終戦で戦地から帰ってきたお父さんが頑張った成果)からあとをさすが
     全共闘世代は1965年当時現役大学生だった世代。つまり1944年生まれくらいからあとをさす。
  • 1969年。東大安田講堂封鎖。東大・東教大、この年の受験中止。
     (村上龍『69』参照)
     権威の象徴である東大封鎖は、いろんな意味で衝撃が大きかった。
     しかし、運動は次第にセクト化し内ゲバや闘争の過激化が目立ち始め、大衆の支持を失う。
    学生自身も疲れ果て、70年を目前に学生運動は急速に終焉。
     安保はいつのまにか継続承認。

  • 1972年。浅間山荘事件。妙義山や大菩薩峠などでの内ゲバリンチ殺人の状況が明らかになり、
    世間を震撼させる。大衆の学生運動離れ決定的に。
     これが後に「よど号事件」「テルアビブ乱射事件」へとつながる
    これ以後、「学生、特に高校生や中学生らに政治に関心もたせてはいけない!」と、高校を中心に締め付け厳しくなる。
    立て看・集会禁止にはじまり政治活動の一切から子どもたちを遠ざける。
    いわゆる管理教育が始まり、三無主義・シラケを生む 
    つまり、管理教育は、わたしたち世代の学生運動の行き過ぎが原因なのだ!!
    しかも、全共闘の闘士たちは、学生運動が終わるとさっさと背広に着替え、会社人間になった。
    世の中は高度成長から、さらにバブルへ突入し、家庭の崩壊へとつながる。

  • 1970年代後半から、団塊の世代の子どもたちが就学年齢に達し、第二次ベビーブームが起こる。

    団塊の世代は戦後民主教育のおかげで、教師も親も子も平等対等という刷り込みをされているから、
    自分の子どもがお世話になる先生を敬うという精神に乏しい。
    高学歴化の時代、なまじ教育学部をでた教師より学歴が上の保護者がおおかったりして・・・
    教師や学校の権威が失墜していく。
    このあたりから目立ち始めた、荒れる学校・家庭内暴力・いじめ自殺・少年犯罪・・・・
    これも、すべてわたしたち世代が遠因なのか???

    東西冷戦の中で育った団塊の世代が、ベトナム戦争の影響もあって、政治に目覚めるのはある意味
    必然だったが、学生運動が暴走したつけで次世代への教育管理が厳しくなったのは、
    皮肉としか言いようがない。
    そのうえ、経済的に豊かになった次世代は政治や社会への関心が薄い。

    しかし、若者はいつの世も真面目に人生や社会の矛盾を考えるものだ。
    その若者が答えを求めてどこへ行ったかと言うと、オウム!!!

    そう思って眺めると、今の状況は歴史の流れの中であるべき姿なのかもしれない。

    さらにさかのぼれば、わたしたち世代に共通の、口ばかり達者で、背骨が一本通っていないという
    共通の弱点は、敗戦のショックとわーっと流れ込んだアメリカ文化にうろたえてしまった親世代が、
    それまでの価値観や権威や伝統を捨ててしまったあたりに原点がある。
    などと言われたら、親世代はつぶやくだろうか。
    「それって、おれたちのせい?」
    いや、もっと、さかのぼれば
    「それって、軍国主義へ進むのをとめられなかった世代のせい?」
    「明治維新で古くからの伝統や日本の心をあっさり捨てた世代のせい?」

    どの時代も、捨てたものもあるかわり、獲得したものもあるはずだ。
    明治維新では、封建制度を捨て、近代化を得た。
    江戸時代の封建制度も、考えられているほど閉塞的なものではなかったらしい。
    家老の子は家老、などといわれているが、器でない者は跡をつげないこともあったようだ。
    建前は建前として、それなりの抜け道もあったということだろう。
    その時代その時代、人々はそれなりの知恵で精一杯生きてきた。
    その結果の積み重ねとして今がある。
    そう考えていくと、歴史って面白いではないか。
    それに、わたしは、どの時代にしろ人間のすることは、表層的には変わっていても、根本的なところでは
    変わりがないと思っている。
    ずるい人、弱い人、賢い人、いばる人、高潔な人、思慮深い人、調子にのる人
    ・・・時代に関係なく一定の割合でいるのではないか。
    そして、それは一人の人間の中にも、わたし自身の中にも・・・

    いまどき若者に話をもどそう。
    だから、いまどき若者がコミュニケーション下手だったり、討議ができない、物事を深く考えない
    (ように見える)ことを、わたしは責められないのだ。
    だって、われわれ団塊の世代の反動で、次世代の人たちは、語るな、考えるなと教育されてきたのだから。
    それに、甘いと言われるかもしれないが、わたしは、いまどきお気楽若者を責められない。
    お気楽にみえて、彼・彼女たちもそれなりに苦しいのではないか。わたしたちの世代までは
    ・・・らしく、とか、適齢期とかいうものがあって、それなりの年になれば結婚なり就職なり、
    否応なく自立してったが、今の若者には、そういう・・・らしく、という設定モデルも目標年齢もない。
    モラトリアムでい続ける自由。
    なにも獲得すべき目標が設定されない自由。って、けっこう辛いのではないだろうか。

    迎合するつもりはないが、昔の規範とはちがう価値基準が生まれるのではないか。
    たしかに、いまどき若者は・・・と思うときもあるが、私たちの世代とは違う
    新しい価値観とか観念とかがうまれるのではないか。。と期待しているのだが
    ・・・はて、甘すぎるだろうか?

    わたしは、基本的にオプチミストなのだ。




      広告 花 無料レンタルサーバー ブログ blog