日本の児童文学 あ行
●赤木かん子編 『地球最後の日 SFセレクション5』 ポプラ社 2005
子どもの本関係でこの人の名を知らないのはモグリだ、というほど八面六臂の活躍をしている
赤木かん子さんが、すでに出版された本、絵本の中から選び抜いて編んだアンソロジーということで期待が高まる。
本書はタイトル通り、終末論的テーストの短編。
力作・問題作揃い。
「The End of the World」 那須正幹
「悪夢の果て」 赤川次郎
「おとうさんがいっぱい」 三田村信行
「電話がなっている」 川島誠
「おむかえがくるよ」(コミック) 曽祢まさこ
巻頭を飾っている「The End of・・・」はもう定番中の定番
「おとうさん・・」も「電話が・・」も、お名前はかねがねだったが、ようやく拝読できた。
うーむ。すごい。
「おとうさん・・」はユーモラスに、「電話・・」はリリカルな筆致で、告発している。
「おむかえがくるよ」は、現代姥捨て山物語。
おばあさんの姿が、おばあさんの覚悟が。。。う、ううっ。
驚いたのが「悪夢の果て」
ごめんなさい>赤川次郎さま。
貴方のことを過小評価していました。
解説で赤木かん子が言っているように、
「本当は文章がうまいのに、うまいと思われてない作家」
いや、文章がうまいのはわかっているけど、軽い、と。
これほど重い内容の作品も書いていたんだね。
教育改革審議会のメンバー、某大学教授の主人公。
徴兵制への道筋をつけるような審議の内容には、多いに危惧を抱いている。
しかし、家に帰れば、茶髪の不登校息子は女の子を連れ込み、妻はカルチャーだなんだと・・・
いっそ、ほんとに兵役にでもいって鍛えなおしたほうが・・・
妻に揺さぶられて目覚めると、息子に赤紙が来ていると言う。
なんと、一家は全員が昭和20年にタイムスリップ。
一人だけのタイムスリップには驚かないが、家族も、周囲も、全員そろって時代を飛ぶ、という設定に、まず驚かされる。
妻も息子も、そのガールフレンドも、まったく同一人物なのに、あのころの軍国主義的思考、反応。
歴史を知っているのは主人公だけ。
あと、数ヶ月・・あと二ヶ月・・・しかし・・・
これは恐ろしかった。
これだけでなく、全部、恐ろしかった。
●赤木かん子編 『変身願望〜メタルフォーゼ SFセレクション6』 ポプラ社 2005
「空への門」 星新一
「宇宙少女アン」 クリス・ネビル
「ぼくは、おんなのこ」(コミック) 志村貴子
「嘘つきな人魚」 菅浩江
「わが家のサッカーボール」 イアン・マクラウド
うーん。たしかに全部変身ものだ。
一番ストレートなのは「ぼくは、おんなのこ」
ある日、いっせいに世界中の男と女の性がいれかわる。
それをどう受け入れるか。
一番ややこしいというかひねってあるのが「嘘つき・・」
菅浩江もお名前はかねがねで未読だが、こういう作風なのかあ・・・
と、これまでご縁のなかった作家を知るという点でもアンソロジーというのは面白い。
で、わたし的に一番面白かったのは「わが家の・・・」
人間が自由に、なりたい動物に変身したりもどったりできるなんて、スゴイ発想。
それに、それに・・ぷぷっ。
サッカーボールなんて。
あ、でも。。。いいのか、ずっとサッカーボールのままで。
うん、いいのかなあ・・・
ちょっと複雑。
●赤木かん子編 『未来世界へようこそ SFセレクション7』 ポプラ社 2005
「地球からの手紙」井本由紀
「お召し」小松左京
「むぎひとつぶ」さねとうあきら
「武器なき世界」カート・ボネカット
「ウァヴェリ地球を征服す」フレドリック・ブラウン
最初の作品は、イギリスの子どもの手紙コンクールでグランプリをとった環境保護をテーマにした掌編。
それ以外は、SF作家の第一人者ばかりだから、
時空のずれが生じて、こことはちがう世界が・・・・
普通にはありえない能力を持った科学者・・・
地球外生物が地球の電気をくいはじめた。とつぜん、電気のない生活が・・・
など、それぞれに技があり、読み応えがある。
わたし的に一番面白かったのは、「お召し」
三千年以上前の記録が解析された。その内容とは・・・
ネタばらしできないが、最後まで読むと、前書きにある
「養魚池というものをご存知だろうか?
孵化された稚魚は、養魚池にはなされ、一定の大きさになると、別の池にうつされる。
魚にしてみたら、何のために、そんな目にあわされるのか見当もつくまい」
の意味が、よくわかる。
そう、魚を人間にあてはめて・・・・
●浅田宗一郎 『さるすべりランナーズ』 岩崎書店 2004
児文芸創作コンクール優秀賞受賞作品
かけっこの苦手な速人はごく普通の小学生。これまで、真剣になにかに取り組んだことがない。
クラス対抗リレーをきっかけに、強士、潤子といっしょにランニングの練習にはげむことに・・・
それぞれ家庭に事情をかかえる二人、そして、ノーテンキだった速人も、大きく成長していく。
こども読者はそれぞれの登場人物にのって、わらったり、ジンときたり、励まされたりするのではないかな。
●あさのあつこ 『舞は10さいです』 新日本出版社 1996
舞は4年生なのに、おねしょをしてしまった。
お母さんは、さりげなくふとんの始末をしてくれる。
ほっとする舞。いい、お母さんだなあ。
が、そのお母さんが、たまたまなおみちゃん、なおみちゃんのお母さんといっしょになったとき、舞のおねしょをばらしてしまった。
ひどい!
いくら、なおみちゃんのお母さんが、本人のいるまえで、お姉さんばかり関心を持っていて、なおみちゃんを無視する言い方をしたからって。
なおみちゃん、しゃべらないかなあ。
気になるが、黙っててね、とたのむにもきっかけがない。
そう思ってみてみると、なおみちゃんって・・・・
それに、あのお母さん・・・・
友人の、それまで気がつかなかった一面を発見し、共感し、自分もお母さんに自分の気持ちをはっきり言い、友人といっしょに階段を一歩のぼる。
と解説すると、ありげな話のようだが、あさのあつこは子どもの心理のひだを描くのがうまい。
人物にのって、一緒に感じながら、ぐいぐい読み進められる。
なおみちゃんのお母さんも、ステレオタイプではあるが、でも、こういう無神経な、子どもの気持ちがわからないお母さんっているよね。
というか、きっと、どのお母さんも、どこかでなにかしら子どもの気持ちを傷つけているんだろうな(わたしも)
そういうもろもろ、克服していかなくては、だって、もう10さいだもの。
「十年も生きていれば、たいていのことはできるよ」
解決のヒントは、やっぱり、おばあちゃんなんだな。
●天沼春樹 『郵便配達マルコの長い旅』 毎日新聞社 2004
島にたったひとりの郵便配達マルコは、ある日、<ロンドン動物園 ワラビ―のロロ様>あての手紙を頼まれる。
差出人は、ワラビーのトト。<郵便配達は手紙をとどける人のこと>
南のはての小島からロンドンまで、マルコの旅が始まる。
嵐にあったり、ラクダに乗ったり、気球に乗ったり・・・
ドイツ文学者にして、飛行船大好きの筆者による、ちょっとハイカラな大人の童話。
●あまんきみこ 『ちいちゃんのかげおくり』 あかね
空襲で家族とはぐれてしまったちいちゃん。おとうさんたちといっしょにやったかげおくりを思い出す。
なあんだ、みんな、そこにいたのね。哀切
●あまんきみこ 『おはじきの木』 あかね
空襲で家族をなくしたげんさんは、11年後、かなこがにれの木の下でおはじきをしながら、みんなの帰りを待っていたことを知った。時系列がややこしい。
●安房直子 『すずめのおくりもの』 講談社 1993
小さなとうふやさんに、すずめたちがお願いに来る。
この豆でとうふを作ってください。
すずめたちが、かわゆいかわゆい。
ストーリーとしては単純だし、安房さんには珍しく、冷ややかな味わいではなく、ほんのりほのぼの系。
地域の学校の読み聞かせ。わたしの担当は6年生。図書館で、あれこれさがして、手に取ったのがこれ。
安房さんの文章は、やさしく、美しく、こなれているので、声に出して読みやすいし、耳で聞いても絵が浮かぶのだろう。
生徒たちは、目をつぶったり、うつむいたり、どこかを見あげながら、それぞれイメージをしながら聞いている。
菊地恭子さんの挿絵もかわいくて、いい味。
ところどころ、本を生徒のほうにむけて、絵を見せる。
読み終わると、拍手が出た。こんなことははじめてだ。安房さんの本の力。すごい。
●いしいしんじ 『麦ふみクーツェ』 新潮文庫 2004
坪田譲治文学賞
町の吹奏楽団の指導に全精力を傾けるじいちゃん。
素数にとりつかれ、いつも家の階段の12段目に座り込んで証明の計算をしている父さん。
母さんは、ぼくが生まれたとき亡くなっている。
そして、ぼくは、小さいときから図体がでかく、しかも、心臓に問題があるため、運動を禁じられていた。
教室の一番、後ろ、そこがぼくの指定席。
男ばかりの、それも風変わりな家族。
そんな孤独な少年がときおり耳にするのは とん たたん とん クーツェの麦ふみの音。
吹奏楽団のメンバー、用務員さんの語る話。吹奏楽コンクール。新聞の切り抜き。
とつぜん空からふってきた、大量のねずみ(!)。
目の見えないボクサー、ちょうちょおじさん。
町にやってきたセールスマン。天才チェリストとその娘。
まるで寓話のような、穏やかだけど、どこか物寂しく、もやがかかったような、小さなエピソードたち。
なにがどこでどうつながっているのか、完成図がまったく予想できないまま、手触りだけをたよりに、ピースを一つ一つつなげていく。
最後に残ったピースをおくと、ああ! 一度に視界がひらけ、そこには、たしかに穏やかだが、暖かな光に満ちた世界がひろがっている。
登場人物はみな、変わっている。へんてこだ。
へんてこな家族、へんてこなぼく。でも、へんてこって、なにがへんてこ?
ふつうって、なに?
自分を受け入れること。自分が受け止めてもらえること。自分の居場所を見つけること。
ああ、うまく説明できない。説明してしまうと、この作品の味わいが損なわれてしまう。
繊細さと、でも、底にしっかりと固い、どっしりとした根太のようなものが通っている安心感が、奇妙に、でも絶妙なバランスで両立している。
●伊藤たかみ 『ミカ×ミカ!』 理論社 2003
ミカとユウスケは双子の兄妹。中学1年になったばかり。
小学校のときとは授業も部活もちがう。
クラスも、まだ、これから人間関係を築いていくところ。
ちょいと気になる子がいたりして、いろいろびみょーな年齢である。
ミカは、制服ではじめてスカートをはく、というくらいボーイッシュ。
ようするに女らしくないオトコオンナ。だが、しょっちゅう出入りしているユウスケの友人、ヒロキは、ミカが好きらしい。
でも、ミカは・・・
思春期前期の、本人は大真面目だが、どこか、ほんのり可笑しい時代。
それぞれのキャラが、よくたっている。
うまいなあ。。。。。
最近の(成人の)出版傾向として、身辺の些細な日常を些細なままに(少し前のような特異な、痛々しい状況ではなく)描写する作品が多く見られるような気がする。
森絵都。角田光代・伊藤たかみ(この二人が語ご夫婦とははじめて知った)・・・
大きな物語ではなく、それこそ、小さな小説・物語。
力技ではないけど、それはそれで、当たり前な風景だけに、技がいるだろう。
ミカも、ヨウスケも、ヒロキも、その他登場人物たちは、みんな、ああ、いるいる。いたいた。ふつうの子達だ。
みんな、そのまま、少しずつ傷ついたりしても、ふつうに大きくなるんだよ
●いとうひろし 『ふたりでまいご』 徳間
おとうとをきたえなくっちゃ。ライオンはせんじんのたにからはいあがるんですって。
せんじんのたにがないから、そうだ、まいごにさせてみよう・・・
あいかわらず、可笑しなおねえちゃんだ。
●池田美代子 『占い魔女は消えた』 岩崎書店 2001
妖怪すきなまひるとレイは誘い合って、占いがよくあたるという「くだんばあ」の万年竹屋敷へ。
岳のおかあさんがなくなったあと、まひると岳は兄弟のように育った・・・はずだった。
おなじみの妖怪がでてくるが、既成のイメージによりかからず、ありきたりのパターンでもない。
読後「わたしは、わたしらしくていいんだ」自分に自信がもてる。
●池田美代子 『呪われた鏡 占い魔女2』 岩崎書店 2003
転校生なっちゃんが落とした古い鏡を拾ったまひるは、明日返そうと机において寝た。
夜中、ふと目がさめると、その鏡がカタカタと・・・ きゃーっ!
鏡に魅入られたなっちゃんのまわりで、つぎつぎ不思議な事件が起こる。
しかも、親友のレイまでが・・・というあたりまでは快調だったが、
二人がなっちゃんとレイをとりこんだ妖怪と対決するあたりで、頭がごちゃになった。
主人公の身にふりかかった事件じゃなくて、友だちにふりかかった事件。
それに、彼らに乗りうつった姫様の恋の事件との重なりなど、目に見えない事物を
一人称で叙述するのが苦しい場面も・・・
しかし、この筆者の言葉に対する笑いのセンスは、ツボにはまる。
●伊藤遊 『ユウキ』 福音館 2003
平安もので鮮烈なデビューを飾った筆者。3作目はがらっとかえて現代もの。
多くの転勤族をかかえる校区のため、移動があるたびに、仲良しを失ってきたケイタ。
サッカー部の強力メンバーだった勇毅は、この春、転校してしまった。
その前仲良かったのは裕基。その前は悠樹。なぜか、いつも仲良くなるのは「ユウキ」
とくれば、単なる偶然ではない。と思ってしまう。新学期をむかえ、クラスに転入生が入ってきた。
優希(ユウキ)、女の子。すぐにクラスに溶け込んだ優希だったが・・・
転校のため、離れ離れになる友人。喪失感と新たな出会い。関係性を構築するための摩擦や痛み。
まさに、パズルのように構築された作品。
●伊藤遊 『つくも神』 ポプラ社 2004
老朽マンションに住む一家。
父は仕事で忙しい。中学生の兄雄一は、最近、不良仲間に入っているらしく、態度や服装が乱れている。
たまにパートに行っているらしいが、ほぼ専業主婦の母は、雄一のことで頭が痛い。
小5のほのかは、女の子特有のグループ内での力関係に、どうもなじめないでいる。
マンションと、おばあさんが一人暮らししている隣家とのあいだのゴミ置き場でのボヤ騒ぎがあった。
マンションの古株、井上さんは、ボヤの原因は雄一のタバコだと決め付けている。
あれもこれもで、ほのかの心は落ち着かない。
ボヤの翌日から、ほのかと雄一のまわりで、ふしぎなできごとがつぎつぎに起こる。
マンションのエレベーターに、ショウキの置物があったはずなのに、つぎのしゅんかん、それは消えていた。
隣の家のお蔵から黄色の傘が飛び出し、さらに、黒い鳥が・・・
それらは、ほのかや雄一を守るため、おばあさんの家を守るため、結界を破って出てきた「つくも神」。
雄一は忘れていた幼い日々の記憶を思い出す。
そして、母も・・・
両親や井上さんなど、ややステレオタイプだったり、展開がパターンであったりはするが、ほのかの、子どもなりに、子どもだからこそ、気を使ったり、心が傷ついたり、なにか言いたくてもうまく言えない、とりあってくれない、そういう微妙な揺れがよく伝わってくる。
なにより、つくも神たちの造形が魅力的。ここいらは伊藤の独壇場だろう。
物にも心がある。人に大切に使われて長い年月を経た「物」には魂を宿り、「神」になる。
しかし、つくも神になった物も、さらに老朽化し壊れてしまうと、神ではなくなる。
「ものを大切に」「資源を大切に」といった、標語のような薄っぺらさではない。
もっとずっと古くから日本人のあいだに伝わっている、”八百万の神”的、土俗信仰のような意識。
それが、ここちよい。
●井上こみち 『おいでカーリー』 くもん
盲導犬の訓練を受けるまでの子犬を育てる家族。最初いやがっていたおじいちゃんも・・
●今西祐行 『一つの花』 ポプラ社文庫
戦争の悲しみを訴える短編。けして声高ではない。しかし強く心に刻まれる。
●岩崎京子 『ドッジの風』 大日本出版
ゆうこは5年生。おきまりのいじめなどがあるが、それよりゆうこは保育園児の弟けいたの
送り迎えやお守りでたいへんなのだ。
となりのクラスからドッジの試合を挑まれるがボロ負け。このままでは悔しい。
そこへお父さんが映画作りの話を持ちこんで・・・
●岩崎京子 『お父さんの足音』 ポプラ社
岩崎京子さんの自伝
独立してはじめた事業がなかなか軌道に乗らず苦労する両親と妹二人の家族を中心に、
幼いころから、
戦争の足音が聞こえ始めるころまでの、家庭や学校での日々。
自分のことを描くと、甘くなったり感傷的になったりしがちだが、
距離をおいて淡々を描ききり
不器用で真面目で、努力型、岩崎さんのお人柄がにじんでいる。
●岩瀬成子 『金色の象』 偕成社 2002
お兄ちゃんの友人を好きになり、友人と日帰り家出をし、近所のおばあさんのどこまでホントかわからない話を聞き、迷子の女の子を交番に連れて行き、
習字塾でいっしょだった幼馴染と出会い・・・花の日常をみずみずしい筆致で描く。
●岩瀬成子 『さらわれる』 BL出版 2002
父親の急死。引越し。母親が勤めにでる。転校・・・と環境が激変した芽衣、六年生。
以前の家の近所に住んでいた男の子が行方不明になった。誘拐ではないか・・という騒動から、
芽衣の気持がびみょうにゆれはじめる。
大きな事件が起こったり、起承転結的ストーリーがあるわけではない。まして教訓や成長物語ではない。
少女の目に映った景色を淡々と描いている、それだけなのだが、あとに「落ち着かない気分」が残る。
伝わる子には、すごく伝わる。そこが、岩瀬作品の特性。
●岩瀬成子 『小さな小さな海』 長谷川集平・絵 理論社 2004
2年生のよしろうは水が苦手。ほかのスポーツは好きなのに、水泳だけはダメ。
夏になり、体育の授業が水泳になる。
今日は水泳と思うだけで、学校へ行くのもいやになる。
次は体育の授業と思っただけで、おなかがいたくなり、保健室で寝る。
(ああ、この気持ち、わかるわかる)
ある日、おなじ時間に3年生のこうじくんも保健室にきた。
どうやらなわとびが苦手らしい。
よしろうは、帰りに公園でなわとびを教えてあげる。
つぎに会ったとき、グランドではかけっこ。
なあんだ、かけっこが苦手なの。ぼくが教えてあげるよ。
と、そこまではありきたり。
え、岩瀬成子がこんなありきたりの・・?と思ってしまったが、すいません、そんなわけないです。
後半、ぐいぐいと話が展開し・・・
不思議の、ひみつの、ふたりだけの小さな海。
あれは、ほんとうにあったことだろうか。こうじくんは・・・
だれにでも苦手なことはある。
ずる休みじゃなくて、ほんとにおなかが痛くなるんだ。
そういうとき、こういう魔法がかかったら、いいなあ。
長谷川集平の絵も、なさけない男の子の気持ち、ふしぎな時空間を出して、味がある。
●岩瀬成子 『「さやか」ぼくはさけんだ』 佼成出版社 2007
ぼくは強くなりたい。クマタカのように。
さやかは強い。背も、ぼくより高い。気がつくと、いつも、さやかに命令されていたような気がする。
ちょっとしたはずみから、ケンカになった。
いつも言いなりになるぼくだけど、そのときはなぐり返した。
さやかはおどろいたようだ。
でも、ぼくのくやしい気持ちは、石ころのように心に残っている。
ゆういちやじろうやいたるや、ぼくとで、さやかをからかった。
いじわるをした。あ、と思ったけど、止まらなかった。
ぼくは、ゆういちとじろうといたるをよびだし、山の小屋へむかった。。。。
ふだんなかのいい子ども同士が、ちょっとしたことで意地を張り合い、そこまで思ってなかったのに相手を傷つける。
ほんとうは、仲がいいし、認め合っているのに。
岩瀬成子は、そういう気持ちのすれちがい、心の動きを、無駄のない言葉できっぱりと切り取る。
田島征三の、泥絵の具をぬりたくったような絵が、子どもたちの、どろどろとまとまらない、言葉にならない思いをあらわしている。
●上橋菜穂子 『虚空の旅人』 偕成社 2001
新ヨゴ皇国の王子チゃグルは高貴な生まれながら、数奇な運命に翻弄され、生来の純粋で清らかさだけでなく、人の痛み・愛情の絆を知り、繊細な部分と物事を深く見つめる目を併せ持っている。
それは、時に冷酷な判断を強いられる為政者としては弱点かもしれない・・・
隣国サンガル王国の王位継承の式典で、同じ弱点を持ちながらまるきり正反対の荒々しく真っ直ぐな気性のタルサン王子と出会う。
同い年の二人は互いに反発しながらも惹かれあっていく。
一方、式典準備の影にサルタン王国ばかりでなく一帯の国々をも狙う陰謀の手がひたひたと・・・・
国々の文化・風習・国民性の違い、王族のあり方、庶民の暮らし・・・ファンタジー世界ながら
文化人類学的リアリティーが厚みを増している。
そしてなにより、王族であり、一人の青年である、チャグル王子の成長と苦悩が伝わってくる。
今回は、バルサの登場なし。チャグル王子と星読みのシュガが事件を解決する。
しかし、サンガル王国の王女たちの強くてしたたかなこと!
●上橋菜穂子 『神の守り人』 偕成社 2003
バルサは、ロタ王国で人買いに連れられた兄妹、チキサとアスラを見かけ、胸を痛める。
しかし、実は、少女アスラには、伝説の神タルハマヤがのりうつり恐ろしい力を得ようとしていたのだ。
バルサとおさななじみタンダは、王国の中枢にひそむ陰謀に巻き込まれることに・・・
普通の、なんの感能力もない、しかし、たった一人残された肉親である兄チキサの戸惑い。
バルサは、追っ手から身を守るため、用心棒として生きるため、
多くの人を傷つけ殺してきた。
自分が味わったような哀しみをアスラには経験させたくない。
それらの思いは、カミサマに魅入られた幼いアスラに届くだろうか。
カミサマを封じて、アスラを救うことは、はたして可能だろうか。
”かけがえのない人”のため、あえて人質になったタンダは、バルサの危機を救えるだろうか。
メインストーリーを裏付けているのが、文化人類学的
リアリティの厚さ。
そして、ラスト。アスラの幼い決断が痛い。
●上橋菜穂子 『狐笛のかなた』 理論社 2003
自然界のなかで、カミ、人間、動物、魔・・・が、渾然として共存していたころ。
人々の暮らしの中で、まだ、呪や術の存在感があったころ。あの世とこの世が、まだ、近かったころ。
村はずれに、おばあさんと一緒にひっそりと暮らす小夜は<聞き耳>の力が備わっている。
野犬に追われていた子狐を助け小夜は、謎の少年、小春丸と出会う。
その子狐は、主(あるじ)に命を握られ、意のままに操られている<霊狐>だった。
そして、少年小春丸と小夜はある運命で結ばれていた・・・
出だしから、一点の乱れも無駄もない削ぎ落とした文章で、一気に作品世界に引き込まれる。
物語は、権力、統治、親子の情、憎しみ、恨み、さらに男女の愛が幾重にも絡まり、重層的に進んでいく。
そして、予想外の、いや、上橋ならこうしかないだろう・・・ラストが待っている。
あとがきに、種が芽吹いてから10年以上・・とあったが、さもありなん。
じっくり熟成された、上橋菜穂子の世界観の集大成のような物語世界。
●上橋菜穂子 『獣の奏者 上下』 講談社 2006
女系の真王をいただき、聖性を権威として民を治めるリョザ神王国。
その神王国を、武力で守り、仕え、政治上の権力をにぎっているのは公国の大公。
公国の兵士が操るのは、凶暴な闘蛇。
水陸両用、空も飛ぶ。そして、どんな敵をも一飲みにしてしまう。
しかし、神王国の王獣(翼を持つライオンのような生き物)は、鳴き声でその闘蛇を金縛りにし、腹から噛み砕いてしまうという、
さらに恐ろしい獣。
と、この物語世界は、権威と権力、王獣と闘蛇、と二重構造になっている。
闘蛇を飼育する職能集団の中で、エリンの母は、女性ながら優れた医療技術が認められると同時に、
特殊な技をもつ霧の民出身ということで、恐れられてもいる。
エリンの母が受け持っている闘蛇が、大量死。
が、役人は、その原因をさぐるよりも、エリンの母にすべての罪をかぶせ処刑する。
エリンは、母を救おうと闘蛇の池に飛び込む。
母は、エリンを救うため、自分を犠牲にし、「大罪」として封印されていた闘蛇を操る技を使った。
それは、霧の民にとっても危険の前兆だった。
闘蛇によって山奥へ運ばれたエリンを救ったのは、ミツバチ飼いのジョウン。
世捨て人の暮らしをしているが、元は貴族の子息たちの学舎の教導師長だったジョウンのもとで、
エリンは、生き物への深い興味、医療の知識を、さらに深めていく。
ジョウンとの暮らしは、とつぜん終わりをつげ、エリンは、獣の医術師を目指して王獣保護施設で学ぶことに。
人との距離をおいて飼育するべきと定めた王獣規範を知らないエリンは、傷ついた王獣を、自分の経験と感覚で世話をし、
飼いならすことに成功する。
それは、母の犯した「大罪」の意味を知り、神話として言い伝えられていた王国の成り立ちを明らかにし、
ついには、神王国と公国の拮抗関係を大きく崩すことへとつながっていった。
エリンは、自然や生き物をただ観察するだけでなく、そこからさらに深く思索する。
「生き物はなぜ、あのように在り、人はなぜ、このように在るのか」
「人の都合によって、生き物を操っていいのか」
凶暴な王獣を、投薬や音なし笛で管理・調教するのではなく、
愛情を持って、本来の生態に沿って接しようとするエリンに対し、教導師長エサルは繰り返し警告する。
「すべての生き物が持っている感情は<愛情>ではない。<恐怖>だ。
冷静で論理的に、獣とのあるべき距離と、あるべき対峙を」
しかし、一方で、自分がなしえなかった王獣の真の生態の探求に、つい応援もする。
エリンの一途で無垢な探求心が周囲の人々を動かしていく。
壮大なハイファンタジーの中で、自然と人間とのあり方とは、
権力(軍事、経済、流通など、生活に即した力)と権威(精神のよりどころ。罪や戒律といった、人を縛りも、導きもするもの)とは、
民族とは、階級とは・・・・など、いろいろな問題がつきつけられていく。
しかし、どれも、答えは一つではないのだろう。
そこが深い。
●大川悦生 『おかあさんの木』 ポプラ
子どもが出征するたび桐の木を植え我が子に語るように語りかけた母「おかあさんの木」ほか4編。
民話風語り口。甘さと耳ざわりのよさ。
●大倉記代 『想い出のサダコ』 絵・夜川けんたろう よも出版 2005
大倉記代さんは、サダコが入院していた広島日赤病院で、三ヶ月間、相部屋だった方。
当時、記代さん、14歳。思春期に差しかかっていた文学少女。
サダコ、12歳。病院中をちょこまかと動き回り、だれとでも仲良しになってしまう、下町の活発な少女。
とても死にいたる病を抱えているとは見えなかったし、記代さんは、サダコの病気が進行する前に退院している。
だから、記代さんの中で、サダコの死を受け止めることがなかなかできなかった。
その日々を淡々と綴った、NF絵本。
ごく平凡な少女、サダコの命の輝きがキラキラとまばゆい。
それだけに、後に訪れるサダコの死を受け止めかねたまま歳を重ねていった記代さんの後半生には、重いものがあった。
記代さんは、サダコが「原爆の子の像」になり、映画や児童書などで「いたいたしい少女」「平和を祈る少女」として
語られることに違和感、抵抗を感じ、
「わたしと一緒に千羽以上折りました」
いくら言っても、悲劇として語る効果のためか「あと少しで、千羽に届かなかった」と脚色され、いつしか伝説となってしまうことに虚しさを感じる。
サダコについて語ることも、語られることにも、さまざまな思いがあったことは想像にかたくない。
以後、一切、原爆やサダコについて発言することを控え、ひっそりと生きてきた。
わたしも『折り鶴は世界にはばたいた』の執筆に際し、手紙で取材を申し込み、編集者からも接触を図ってもらった。
が、電話でお話を伺うのが精一杯。それ以上の面談や接触は拒まれた。
後書きに謝辞を入れるのも遠慮した。
本は出版社から送ったはずだが、反応はなかった。
それほどに記代さんのガードは固かったし、長年の心の傷、重荷もおもいやられることであった。
しかし、アメリカの子ども平和像の募金に応じてくださり、のちに現地に出かけられた、など、風の便りに耳にしていた。
平和活動にも、自分の言葉で語ることにも、少しずつ、参加なさっていることも、どこからか聞こえてきた。
その記代さんが、ガンと戦いながら、この絵本を世に出すには、なみなみならぬ思いがあったことだろう。
さまざまな思いがかさなる一冊であった。
●大塚篤子 『ヌンのるすばん30日』 PHP 2002
ネパールの山の村。お父さんとお母さんは仕事で旅にでかけた。
ヌンは、弟妹の面倒をみながらお留守番。犬の耳パた、牛のモモ、それに、てんてんバア・・・
不思議なことと一緒にくらすネパールの子どもの毎日。
特別な事件はなにも起こらない。でも、読んでいて心がわくわくする。気持ちがひろびろする。
30日目、お父さんお母さんが帰ってきたところで、わたしもヌンと一緒に泣いてしまう。
●大塚篤子 『風にみた夢ー11歳、ヒマラヤへの旅』 ポプラ社 2006
太郎の父は10年前、太郎が赤ん坊のとき、ヒマラヤで遭難し帰らぬ人となった。
遺体はあがらない。深いクレバスの中だ。
毎年、その日には、一緒に登った仲間が家族とともにおまいりにきてくれる。
そして、今年、いよいよ太郎はじいちゃんといっしょに、父が眠るR峰をめざして旅たつことになった。
と、出発から現地到着、たった二人のために自分と同じくらいの歳の少女もふくめてシェルパが7人も随行してくれることへの驚き、ヘロヘロにくたびれて音をあげるくだり、
陽気なじいちゃんとのやりとり、高度があがる苦しみ、キャンプの様子、などなど、太郎の息遣いにのって、実際に自分がその場におりたち、一歩一歩足を踏みしめ歩いているかのように、感じさせられる。
小道具というにはあまりにスケールの大きな舞台だし、ヒマラヤに登るというのは小学生にとっては、めったにないイベントだと思うが、大きな事件があるわけではない。おおげさな描写もない。
しかし、淡々とした筆致に、知らず知らず作品世界に引き込まれていく。
父の存在をリアルには知らないままに育った太郎は、父の死に立ち会った老シェルパと二人で、父の眠るR峰に一番近く、全体が見える場所だという5500メートル地点をめざし登っていく。
そこで太郎は風にのって父を感じる。
読後、大きな自然の懐に抱かれるような安堵感に包まれる。
●大野允子 『かあさんのうた』 ポプラ社文庫
ずっとずっととおいむかしのこと、いや、きのうのことのようだ。
ひろしまのくすのきが語る、あの日のこと。
かあさんとはぐれたのか、顔中やけどをおったぼうやをだいて、女学生はうたをうたっていた。
うたっておやり、ちいさなかあさん。
原爆。とは一言も書いてないが、悲しみと怒りが伝わる。
以前の教科書に採用されていた作品。
●岡本文良 『魔術師のくだものづくり』 くもん
NF
●沖井千代子 『空ゆく船』 小峰 2001
児文協協会賞。瀬戸内海の光景。短編8作。「びわの実ノート」掲載。余韻ののこる端正な文章。
●長田新 編 『わたしがちいさかったときに』 童心社 1967
「原爆の子」よりひいた被爆児童の作文集