日本の児童文学 や行

                     
●山口タオ 『ソクラテス 耳をすます』  岩崎書店  1999
ソクラテスは公園にいる、大きな野良猫のこと。
ぼくはソクラテスがいつもいる公園で捨て犬をみつけた。
すっごく、かわいい。でも、ママは飼うのをゆるしてくれない。
チョビとなづけた小犬といっしょにすごすため、ぼくは毎日おおいそぎで宿題をすませ、公園にかけつける。
宿題をちゃんとやるぼくに、ママも先生も満足げ。
でも、ぼく、ほんとは・・・
まあ、ちゃんとおちつくところにおちつくのだが、子どもの声に耳をすませて、という思いが、教訓臭ではなく伝わってくる
●山口タオ 『ソクラテスほえる』 岩崎書店  1997 
シリーズの2巻目。
1ねんせいのぼくは、まだじてんしゃにのれない。
ソクラテスに練習を手伝ってもらおうとすると、ソクラテスは魔法使いのばあさんを紹介すると言う・・
と、ここまではよくあるパターンだが、このあとが面白い。
ソクラテスとぼくの友情も、ちょっと泣かせる。

山口タオは、たしか、川上弘美の『椰子・椰子』の後書きで対談していた人だと記憶している。
なるほど川上テーストかも。
●ゆもとかずみ 『かめのヘンリー』 ほりかわりまこ絵    福音館  2003
だいすきなちよみちゃんが病気になった。
「ほこりやばいきんはよくありません」「あとであらってあげるからね」
ものおきにしまわれてしまったかめのぬいぐるみ、ヘンリーのだいぼうけん。
もちろん、さいごはめでたしめでたし。
●横山充男  『水の精霊T 幻の民』  ポプラ社    2002
幼なじみ洋輔の荒れ放題の果ての自殺に衝撃を受け、答えをさぐっていた真人は、なにかに導かれるように父の故郷、四万十川のほとりにおもむく。
祖父は、自分たちはセゴシ一族の末裔だと言い、14歳になった真人にミズチという儀式を授ける。
祖父と一緒にリュックを背負い、山を登り、川辺にテントを張り、自然の恵みをいただき、
天地に感謝の祈りを捧げる。
水の音、空気の匂い、風の動き・・・、ためらいながらも素直に自然と同体化していく
真人の心理が、その場にいるようかのように読み手に伝わってくる。
その修業のような儀式のあいだに、真人は(ここでは無自覚だが)霊的な力を感得する。
一方、全国に散らばっていたセゴシの一族たちが、真人のミズチ儀式にあわせるように、見えない糸に引き寄せられるように四国に集まってくる。
けがれきったこの国を救うため、あるいは、セゴシ一族の持つ力を利用しようと・・・

政治と宗教という、もっとも取り扱い注意な材料を、古代ファンタジーではなく現代に登場させていることに驚かされる。
単なる自然保護・環境問題だけでなく、教育・政治・宗教哲学に至る現代の病理を浮かび上がらせる力技。
と同時に「どうして、いつから、こんな世の中になったんだ!」という筆者の怒りのエネルギーをも感じる。

悪・穢れに魅入られたかのように自死へ突っ走っていった洋輔(どうやらセゴシ一族らしい)と真人はどこが違ったのか。
真人はほんとに穢れを払う”霊能者”なのか、 ”ふた咲きの花”みずき、との関係はどうなるのか。
二人を待っているのは、排除か、弾圧か、悪用か・・・
●横山充男  『水の精霊U 赤光』 ポプラ社    
第一部から4年、祖父とともにミズチの修練を経験し、ふたざきの花、みずきとの不思議な共同運命を予感した真人は18歳になっている。
真人は、普通の高校大学へ進む平坦な道を避け、自分に備わった不思議な浄化の力を認めることも、その力を高めるためにミズチの修練を重ねることからも、自分を遠ざけ、京都のかたすみでひっそり生きている。
だが、真人の周辺には、本人の知らないところで網が張り巡らされている。
やくざや武道家、チンピラやキャバクラ嬢など、裏の世界を歩く人々が真人に関わってくる。
なんだか劇画のようにみえすいた展開に、???と思っていたら、それも、
影から糸をひいている者が真人の力を試すためにたてたシナリオだと明かされる。
一方、進藤圭介をはじめ周囲の人物たちも、まるで定めのように運命が変わりつつある。

作中、しつこいほど、この世は汚れている、根幹まで腐りきっている、という表現があり、
真人には腐った社会を浄化する力があること、しかし、本人はそれをできることなら使いたくないと思っていることが強調されている。
社会は汚れている、だから浄化しなくては、という論理は、一見わかりやすくだれもが納得しがちだが、オウムをみればわかるように実にあやうい。狂信と紙一重の世界だ。
もちろん、作者は、そんなことは百も承知だろう。
第三部で、どういう回答が用意されているのか、真人とみずきはどこへむかって歩いていくのか。
●横山充男  『水の精霊V 呪術呪法』 ポプラ社  2004
”ふた咲きの花”であるみづきが、自分の能力や課せられた使命を素直に受け入れようとしているのに対し、真人は、そこから逃げるようにひっそりと暮す。
しかし、真人の周りにはさまざまな力や問題がひきよせられるように近づいてくる。

国民の目に見えないところで、大和神道勢力は、国家権力や経済界の重鎮と手を組み、この国を動かそうとしている。
そして、ヤマト勢力に滅ぼされた民の怨念をひく裏神道の一派が真人に近づく。。。。
霊的力を持つ子を集めて教育する「光の子」計画。呪詛。呪術。などなど、ある意味、劇画ちっくな構成だったり、 人物もステレオタイプだったりするが、ひきこまれて
読むすすむのは、真人とみづきが、どうやら、世界を救うほどの大きな力をもっているらしいのに、 自分の能力にたいして、まだ、無自覚であり、なにより、生きることに謙虚であること。
そして、セゴシの原初的宗教思想が、善悪・裏表・光と影という二元論ではなく、抵抗や戦いではない別の解決の道をさぐるらしいこと。
憲法改正、教育改革など、絵空事と笑い飛ばせないリアリティがあってゾクリとするが、そういう現実と虚構を結ぶこの物語が、どういう結末を迎えるのか。。。
そして、次第に霊力のステージが上がっているらしい真人とみづきの行く手にはどんな道が開けるのか・・・
●横山充男  『水の精霊W ふた咲きの花』  ポプラ社  2004
神道系の首相を利用し、教育やメディアを利用し、この国を「神の国」にしようとしている伴智利は、
長い年月をかけてふた咲きの花、山本真人、沢村みずきの二人を見守っていた。
いや、さまざまな網を張り巡らせて、「セゴシ」としての修養を重ね
霊力を高めていく二人を囲い込んでいった。
いよいよ二人はふた咲きの花として世界を浄化させる「秘儀」を行なう時期が近づいてきた。
互いに惹かれあってきた二人が、宿命の男女として真に結ばれるための神聖な修法である。
伴はなんとしても、この「秘儀」を公開し、二人の持つ力を一般に知らしめて、救世主として祀り上げたい。
二人は、どんなことがあっても、権力に利用されたくない。純粋に水を浄めることが使命だと心得ている。
最終巻である。さあ、ふたりは無事に、伴をはじめとする権力の手から逃れられるか・・・
というサスペンスが主眼ではない。
実際、その場面よりも、ラスト、およそ30ページにわたって描かれた、二人が心をこめて祈るシーンが素晴らしい。
邪、悪、俗、あるいは、美だったら、だれにでも書けるかもしれない。
しかし、”聖”を描くのは、”魂”を描くのは、だれにでもできることではない。
それも、ここまで広く深く、清らかに、読者に伝わるように描ききるというのは、至難の業だ。
ただただ、圧倒された。

生まれつき、水を浄める力を持つ少年、人の穢れを浄め、背負うことを業として引き受ける少女、その二人が宿命の「ふた咲きの花」として結ばれ、世界を浄化をする。
・・・なんて、粗筋を読んだ人は、首をかしげているに違いない。
でもまあ、読んでください。読後、清らかな厳かな、これまで味わったことのない「気」に包まれます。

やはり、日本人には、自然をねじ伏せるのではなく、自然の中に神を見出し、自然と共に生きる、 生かして頂いている、というほうが、ぴたっとくる。
日本が、石の(乾いた)文化ではなく、水と土と木の(湿度のある)文化だということも、あらためて感じさせられた。
日本古来の宗教観や日本人感など、いろいろなことを感じ、考える広がりを与えてくれる本です。
●吉橋通夫 『なまくら』  講談社  2005
表題作ほか6編。
舞台は京都近辺。時代は江戸明治。 底辺に生きる少年少女たち。
どの子も、自分の腕一本で、生きる糧を得ている。 日々生きていくのに必死だ。
ときに、道を外れそうになる。しかし、
「終わりが見えていれば、たいていのことはしんぼうできる」
「いまからでもおそくはない。引き返すことはできるはずだ」
と、子どもたちは前を向いて歩く。
「あやまちをおかさずに生きてる者など、この世にひとりもおらん。あやまちをつぐなう勇気があるかどうかや」
と支えてくれる人が、一人でもいれば、まっすぐ生きていける。

後味のいい短編。宮部みゆき、浅田次郎に通じる、適度な通俗性と人情味。 小路のほの暗さ、川の匂い、人々の息遣い。うまいなあ。。








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