日本文学 ー か行




角田光代  『だれかのいとしいひと』  文春文庫 2004

表題作はじめ9編。
行きずりの人との会話。
すっかり忘れていたのに、ふとしたときに突然あふれでる記憶。
ドロドロというほどでもない、でも、うまくいかない恋。
オトナ、またはオトナになりかけの若い女性の、日常のふとした景色、ふとした感覚をきりとってある。
ほとんどがMOEに連載されていた短編。
だから、カノジョたちがさらさらと読め、でも、
カノジョたちがうまくあらわすことのできない心のひだをすくいとっている。

江国香織ほど、冷ややかではない。もちろん甘くはないが、ヒリヒリ感でもない。
せつなさはあるが、胸の奥がしめつけられる痛さではない。
ハッピーエンドではないが、人生って、それほど悪くはない、という気にさせてくれる。 そんな感じ。


角田光代  『対岸の彼女』   文藝春秋社  2004

直木賞受賞作。
田村小夜子は、結婚と同時に退社し、今は一人の子持ちの、ごく平凡な専業主婦。
とくになにか欠陥とか問題を抱えているわけではない。 ただ、どうにも周囲に馴染めない。心を開けないでいる。
娘のあかりが、人見知り、というより同じ年ごろの子どもの輪に入れないでいるのを見ていると、我が身を見るようで気持ちがさいなまれる。
ようやく再就職の口を見つけた会社の独身女社長、楢橋葵は、偶然、小夜子と大学の同期生だった。
会社といっても、思いつくまま脈絡なくひきうけてしまうようななんでも屋。
と、作品はなぜか、引きこもりがちだった小夜子が自分の場を見出そうとする現在とカットバックして、
小夜子ではなく、葵の高校時代を描き出していく。
中学でひどいイジメにあった葵は親に頼み込んで、逃げるように転居し、まったく見知らぬ女子高に入る。
そこで、親しくなったナナ子は、クラスのどのグループにも属さず、ちょこまかと動き回る不思議な存在だった。
ピリピリと周囲の空気を読むことに必死な葵は、ナナ子といるときだけが安心できる時間だった。
それはナナ子も同様だった。しかし・・・
ナナ子を描くことで、葵を描き、その葵に一線をおきつつ、どこか惹かれる小夜子をあぶりだしている。
最後になって、高校時代の葵と現在の小夜子の関係性が、見えてくる。
という、構成の巧みさ。
そして、ナナ子、葵、小夜子、それぞれの「周囲とうまくいかないさま」の細部のうまさ。
どこにでもいる、勉強ができるわけではない、なにかすぐれたものをもっているわけではない、
地方都市にすむ、未来になんの展望も持てない「少女」だった葵。
近所の奥様サークルやPTA仲間に入ることが出来ない、周囲の人と、ぶつかるわけではないが、
そつなくあわせることができない、ごくごく平凡な主婦、小夜子。
葵は、痛い思いを重ねながらも「信じるんだ。そう決めたんだ。だからもうこわくない」と思い定め、今がある。
小夜子は、夫、義母、保育園で、職場で・・・ちょっとした思いを感じつつ、
「こんちくしょう、こんちくしょう」とつぶやきながらけんめいに自転車のペダルをこぎつづけ、
「だいじょうぶ、ひとつずつ片付けていけば絶対になんとかなる」と、道をひらいていく(小さな)覚悟を定める。
その道のり、日常と心情が、ひたひたと肌を通して伝わる。
ヒリヒリ感ではない。ヒリヒリするのだが、どこか暖かい。
暖かいといっても人肌程度の温度。
そう、角田光代は、登場人物と同じ体感温度で女性たちの日常を描き、小さな声でエールを送っているのだ


角田光代  『空中庭園』    文春文庫  2005

いたたたた、痛い本を読んじゃったな、というのが読後の率直な感想。
郊外型ショッピングセンターが住民の買い物や食事やデイトや寄り道の拠点となっているが、周囲に目をやれば、
まだ畑や緑が残っている、東京近郊らしき団地。
部屋からも外からも見えるようにベランダに花をいっぱい飾り、パートに出てはいても、子どもたちが帰るまでには
必ず家にいるようにつとめ、家族の誕生日には全員でプレゼント交換し、家族には互いに隠し事がない、という京橋家。
しかし、家族の中に隠し事がないわけがなく、高校生のマナ、二股浮気をしている夫、過剰なまでに”家庭”を演出する妻、
その母、夫の浮気相手のミーナ、そして、中学生の息子コウ、それぞれの視点からそれぞれの光があてられ、この家族が立体的に描かれている。
舞台は、ショッピングセンター、ラブホ、団地、妻の母の家など、日常の生活圏。
それぞれの、かなり思い込みの強い独白が、回想は別として、日数的にも短い範囲で語られている。
だから、余計に息苦しい。

実を言うと、母の章あたりで、もう降りたくなった。
なぜ、ここまで、幸せな家族の裏側を抉り出すのか。
実際、絵に描いたような幸せな家族なんて、ありっこない。
どの家庭も、それぞれの悩みや闇を抱えている、ということくらい、長く生きていれば十分承知している。
それでも、家族の誕生日を祝い、花を飾り、できるだけ手作りの食卓を家族みんなで囲もうとしているこの妻を、
そして、ここまでして家庭を作りたいという彼女の”秘密”を、だれが非難できるだろうか。
筆者は非難しているわけではない。 が、あまりにリアリティがありすぎ、ナマナマしく迫ってくるのが、
それが筆力ではあるが、読んでいて辛くなった。
最後の章、コウが、家族の中で唯一クールで周囲をちゃんと見ている(そのかわり、学校では浮いている)少年として描かれているのが、
そして、家族それぞれの記憶が、あるきっかけで、ひとつに収斂していく予感があるのが救いだった。

ここまで気持ちを引きずらされるって、やっぱ、うまいんだな。角田光代。


風野潮  『マジカル・ドロップス』  光文社  2007

仕事人間の夫、高校生の息子と中三の娘を持つ、ごく平凡な主婦、菜穂子のもとに、 中学卒業の記念にタイムカプセルに埋めた
録音テープ・写真、そして、「15歳に戻れる魔法の薬」としるしたドロップの缶が戻ってくる。
「そうそう、これ、親友だった真由美が埋めたんだ。たしか、効き目は2時間17分なんだよね」
それは、だれにでもよくある経験だろう。
湿気でくっついたドロップをスプーンでバラし、一粒口に入れてみる、というのも、
たぶん、だれでもすることだろう。 まさか、ほんとうに15歳にもどってしまうとは・・・

『リプレイ』にしても『スキップ』『ターン』にしても、『Y』にしても、その他、タイムスリップものは、
事故がきっかけだったり、あるいは、目がさめたら・・だったりはしても、本人の意思と関わらず、
とつぜん時間のねじれに落っこちる、というのが常道だ。
しかし、この主人公は、最初は偶然にしても、そのあとは有効期限を計算して、何度もドロップを口にする。
つまり、確信犯的常習犯的タイムスリッパーだ。

なんのときめきも感動もなく、日常を過ごしていた菜穂子が、そんな綱渡りをしてまで、
15歳のナホとしてやりたかったことは。15歳のナホの目を通して見えてきたものは。。。

主婦の感覚。冷めたわけでもない、かといって、あらたまって考えたこともない夫との関係。
だんだん親ばなれしていく子どもたちを気にしつつ、立ち入らないようにしようとする母親の感覚。
中学時代の、親友との約束。今も一番身近にいる友人。
高校生・中学生の子どもたちは、40歳代の母親から見れば、まぶしい光の中にいる。
かつては、自分もキラキラした光の中にいたのに。
も、ふりかえってみれば、平凡な主婦として暮らした日常が、平凡ゆえの幸せに満ち溢れていたのだとわかる。
一つ一つのディテールにリアリティがあり、ときに切なく、ときに元気になりつつ、タイムファンタジー世界にひたれる。


風野潮  『モデラートで行こう♪』 ジャイブ・ピュアフル文庫  2007

男子校だったのが、女子も受け入れるようになった私立高校の吹奏楽部に入った、菜緒、ノリコ、真琴、恵美の4人組。
菜緒の兄は同じ吹奏楽部の3年生。
ノリコは家族が転勤になったが、どうしても関西に残りたいと寮に入った。
真琴と恵美は、幼馴染で偶然、高校に入って再会した。
家が近すぎる。という菜緒の小さな悩み?から、家庭の問題で言葉を失った恵美まで、
大小はあれ、それぞれ悩みや問題を抱えている。
さらに、幼いころから慣れ親しんだ真琴から、入部してはじめて楽器に触ったというノリコや恵美まで、
力量はバラバラ。
各章ごとに彼女たち一人ひとりの目線で、心の動きや互いの友情に、楽器の習熟度、
野球の応援から地区の大会、文化祭など発表の場でのドキドキと達成感が、うまくリンクして描かれている。

さらに、後半、彼女たちが2年生になり、あらたな新入生を迎える。
入部した女子4人を加え、部全体へと、作品の視界が広がっていく。

各章で、一つの話がある程度完結できている。
それだけに、それぞれのエピソードの描き方や解決に、うまくできている感がないではない。
でも、それが浅いとは思わない。
集団としての連帯感と、個人の動きや成長が、ほどよくミックスして、モデラートなハーモニーをかもしだしている。
児童書というべきか成人文学というべきか、YAというべきか。 そんなバリアはどうでもいい。
とっくに青春を終わった人は懐かしく、まっさかりの人は、おそらく自分に似た人物によりそって、
これから青春にさしかかる人は、マスコミでいろいろ騒いでいるけど、まんざらこわいばかりじゃないな、
と希望を持って、共感を抱きつつ読める一冊。


金原ひとみ 『蛇にピアス』     文藝春秋誌掲載      2004

若い女の子二人が芥川賞受賞、ということから、商業主義的フィーバーばかりが踊って、
文学としての正当な評価がなおざりにされているようでお気の毒。
というわたしも、多少の予見を抱いて読みはじめたのは事実だが、刺激的な小道具の割りに古風な内容、というか、
不条理さとか既成概念をぶちこわす、とかいう意味での新しさがないのが意外だった。
やっぱり、つっぱりお嬢さんも世界が狭いのね、という感じだが、ヒリヒリ感は残るし、後味も悪くなかった。

北森鴻  『狐罠』  講談社文庫  2000

骨董屋の世界は、扱う商品の美しさとは裏腹に、狐と狸と狢・・・駈け引きと騙しあいが日常。
しかし、騙されたからと言って抗議はできない。騙されたほうが悪いのだ。頼るのは自分の審美眼のみ。
大手骨董屋の橘薫堂に贋作をつかまされた旗師(店を構えない骨董のブローカー)冬狐堂の陶子は、
意地とプライドを賭けて目利き殺し(逆に贋作を掴ませること)を計画する。
相手は海千山千の大物。鵺のような存在だ。よほどの手を打たねば・・・
いよいよ動き出そうとするその時、橘薫堂の古手社員殺人事件が起き、陶子にも容疑が掛かる。
骨董商売上の騙しあい。科学鑑定。殺人事件。贋作つくりの名人。30年前の因縁。。。。一見無関係に見える糸が・・・・。

登場人物たちのキャラが立っていたし、ベテランと若手の刑事コンビも、ある意味、定石通り。
いろんな点でセオリーを踏み外していないから、安心して読める。
吟味した材料でゆっくり時間をかけて煮こんだ極上羊羹の味。ご馳走様でした。


北森鴻   『蜻蛉始末』   文春文庫    2004

幕末から明治にかけては、日替わりどころか半日でころころ社会情勢や政治状況がかわったり、藩の中どころか、
同士、あるいは家族の中でさえ意見の対立、裏切り、陰謀、打算、策略・・・・が渦を巻いていたころ。
その渦に巻き込まれて泥の中に沈むか、浮かび上がるか、どちらにしても命がけだ。
政商として財をなした藤田組をめぐって世間を騒がせた事件の背景にスポットをあてた、とっても肉厚な物語。
藤田組経営者藤田傳三郎と、その陰守り宇三郎は、コインの裏表のような存在。
互いに相手を憎みつつ、相手なしではいられない。いやでも相手の考えていることがわかるし、
それをどこかあてにしている自分が、また、嫌になる・・・愛憎が、どうしようもなく深い。
いささか、作りすぎ、出来過ぎ、と思うところが無いでもないが、ぐいぐいと一気に読まされた。

維新の志士たちが、高邁な「志」に衝き動かされて・・・なんて嘘だと思う。
少なくとも、志だけ、ではない。実際は、そんなきれいごとではなく、もっとドロドロしたものだろう。
傳三郎以外にも歴史上の実在人物がぞろぞろ出てくるが、一筋縄ではいかないキャラを描きわけているし
そういったあたりの視点や人物造形がとても納得できた。


北森鴻  『共犯マジック』  徳間文庫  2004

1960年代、ヒッピーのあいだで流行した占星の書「フォーチュンブック」。
あまりに過激で、あまりに暗い予言に満ちた内容のため影響が大きいと自主回収となったが、
松本市内の書店では、たまたまアルバイト店員が在庫の6冊を店頭に並べた。
それを買った人物の人生に暗い影を・・・
登場人物たちは、戦後の大きな事件・事故や社会現象に、なんらかの関わりをもっている。
よくぞまあ。。。というくらい、それぞれの事件や人物がリンクしあい、暗黒へ闇へと導かれていく。
まるでそれが定められた運命のように。
そして、最後の章では、ぐるっとまわって、最初の事件へと戻っていく。
だーれが殺したクックロビン。
因果は巡る小車の・・・
うしろの正面だーれ
うわあぁ こわい。面白い。
けれん味たっぷりの連続短編ミステリー。 しかし、すべての発端があの有名な事件とは。
うーん、たしかに手品(マジック)のような。


北村薫 『リセット』    新潮文庫  2003

「時」シリーズ3作目。
前2作が、いきなり時間のハザマに落っこちるのに対し、これはゆっくりと時間が流れて、つながっていく。

全体のほぼ半分を占める第一部は、芦屋の恵まれた家庭の一人娘・水原真澄の暮らしが一人称で語られる。
戦時下にあったとはいえ、戦争というものが遠いところにあった ノンビリとした光景から
次第次第に戦況が厳しくなり、やがて勤労動員がかけられ 飛行艇の生産に駈りだされる女学生たち。
自由で豊かな暮らしから空気が張り詰めてくるあたりの、家庭や学校での細やかな描写。
躾のしっかりしたお行儀のよい娘たちだが、決してかわいいだけのお人形ではなく、ちゃんと自分の意見を持っている。
ゆったりとした時の流れのなかで、真澄と同い年の修一とが響きあいひかれあう思いが静かに胸に落ちる。

そして、第二部は時を越えて現代。場所は病室。
病状がやや回復してきた村上が、小学生のころの日記を手がかりに、子ども時代を思い起こしての独白。
戦後の貧しさから少しずつ世の中が落ち着いてきたころ、小学5年生の村上が知り合ったおばさんは、
戦後を一人で生きる真澄だった・・・時を越えて響きあう真澄と修一の物語は、まだそこで終わらない。
おおきな感動と幸せな場面が最後に待っている。
時間跳躍の小道具も「・・・よかったね」というフレーズも、なにも大げさなものではない。
それだけに、きらりと光彩を放っている。

それにしても、なんと美しい時間の流れだろう。なんと美しい愛の輪廻だろう。
時代を越えて人はつながっているのだと、確かに感じさせられる。
そして、品のいい文章、美しい話し言葉。日本語の美しさに打たれる。
おばさんになった真澄の科白
「《あの時、何かを得た、得られなかった》というのは、いうべきではないような気がするの・・・
でもね、それは、だからもう・・・何もかも、どうでもいいというのとは、逆なのよね。・・・だからこそ、なのよね、きっと」
この言葉の清々しさ、凛とした強さに背筋が伸びる。

北村薫 『朝霧』    創元推理文庫   2004

わたしと円紫師匠シリーズ第五弾。
六の宮の姫君の卒論をしあげたわたしは、みさき書房で社会人の第一歩を踏み出す。
俳句の解釈や好みを語りつつ、身近な俳人(もと校長)の悲しみに出会う「山眠る」
編集の仕事に少しずつ馴染んできたころ、先輩たちとリドルストーリーの結末を推理しあう「走り来るもの」
そして、祖父の日記の謎ときを通して、これまで無縁だった(以前ちらりとそれらしきものは出てきたが)
人を恋する気持ちを、はじめて知る「朝霧」

このシリーズは、わたしの勤務風景や姉の結婚や友人の消息など、さりげない日常のスケッチの中に、
いつのまにか謎をかけられている。
というより、謎解きという隠し味に彩られた「わたし」の成長物語・ビルトゥングスロマンである。
これまで、家族や先輩や先生たち、暖かな周囲に支えられ順調に育ってきたわたしも、
いよいよ人を想い恋をする年ごろ。 人生の大きな転換点にさしかかってきた。

「六の宮の姫君」以来、わたしが出版社に勤め出したということもあって、
本にまつわる話が多く出て来る。
古典、翻訳物、俳諧から落語まで、北村薫の、膨大な知の蓄積の一端を覗く楽しみもあり、
書物が世に出るまでに、作家をはじめ関わった人たちがどれほどの思いを込めているかも示してくれる。
そして、それはとりもなおさず、北村薫の思いであるのだろう。
それだけに、正統的なミステリーという枠からは少しはずれて、読者を選ぶ本になっていると言えるのかもしれない。

北村薫『六の宮の姫君』    1999 創元推理文庫

再読
みさき書房でバイトしつつ卒論の準備にとりかかっている「わたし」は、 老作家の田崎が語った
「キャッチボール、あるいは玉突き」を手がかりに、芥川の「六の宮の姫君」制作動機について調べ始めた。
そして次第に、芥川と菊地寛の友情と確執、それぞれの人生の奥底に触れる道筋をたどる。
つまり、卒論をしあげるための足どり + 文学論 という構成になっている。

文学論的側面でいうと、わたしも芥川は一応いくつか読んではいる が、個々の作品について
それほど掘り下げて考えたことはなかったし、菊地寛は短編数篇しか読んでない。
まして、「わたし」が卒論のためにたどった参考文献はほとんど知らなかったが、
だからといって、わけがわからないとか退屈かとは、まったく感じることなく、興味深く新鮮な気持ちで読んだ。

「わたし」の成長ストーリーでいうと、読書好きで迷うことなく文学部に進み、
男の子と遊ぶことも流行の事象を追うこともない、いまどき珍しい純朴な「わたし」が
周囲の人々の助けを借りながら、しかし、それに甘えることなくひたひたと自力で謎を解いていく。
そこが、いつもながら清々しい。
そんな「わたし」が、謎を追い調べ物をする過程で、ときに感情の波に襲われる。
それは青春時代特有の甘い感傷かもしれないが、 これから人生を歩もうとする、畏れ、でもある。
「キャッチボール、あるいは玉突き」の謎を追ううち、「わたし」は、二人の巨人の壮絶な、
格闘とも言うべき確執と深い愛憎を知り、 それぞれが歩んだ<人生の厳しさ>に粛然となる。
しかし、この小説はそこでは終らない。最後に、素晴らしい<人生の輝き>を見せてくれる。

筆者の幻の卒論が下敷きになっているというが、当然のことながらこれは小説である。
大学生・北村が実際に調べていった順序通りに書いたわけはない。
そして、小説の構成として、<輝き>をラストに持ってきた。これこそ、
北村の「人生を肯定する」哲学を象徴するものであり、そして、作品を通して流れている
智への憧れとひたむきな探究心、生きるうえでの真摯な姿勢・・・そこが北村作品の魅力。

京極夏彦 『覘き小平次』     中央公論新社    2002

小平次は一日中押入れに籠り、一寸五分の隙間から世間をみているかわった役者だ。
女房のお塚はそんな小平次が嫌いで嫌いでたまらない。 だから、毎日悪口三昧。
小平次は科白もろくに言えない下手な役者だが、幽霊役だけは絶品。 ただ立っているだけで、背筋がゾクリとする。
なにせ、小平次自身が感情をもたない幽霊のような存在なのだから。
がらんどうの闇のような小平次のありようは、逆に人の心を写す鏡なのか。
闇にうごめく悪党どもの因縁が次第に明かされて。。。
人物たちの絡みや種明かしを横糸に、小平次とお塚のねじれた自虐的愛を 縦糸に、
綾なすは不思議草紙か、からくり芝居か。
さあ、寄ってらっしゃい、見てらっしゃい。 お代は見てのお帰りだよ。

京極夏彦 『豆腐小僧双六道中ふりだし』   講談社  2003

主人公の豆腐小僧は、妖怪とはいっても、盆にのった豆腐を捧げもってうろうろ歩くだけで、
いたって小心者で人畜無害。
このキャラがなんだか間抜けで可笑しい。間がずれているから争いにもならない。
それこそ”糠に釘、豆腐にすじかい”の脱力系キャラである。
”間”といえば、京極作品は、独特の間のとり方や語り口調に特徴があるが、今回は軽めの落語調で、
ややマイナーな、恐くない妖怪たちが次々登場し、最後は人妖入り混じっての大騒動の滑稽譚。

妖怪やお化け、魑魅魍魎のたぐいは、恨みとか恐怖とかいった概念の産物という京極理論が繰り返し述べられ、
笑いこそが、それらを骨抜きにする最終のカードだと締めくくる。


京極夏彦 『陰摩羅鬼の瑕  おんもらきのきず』   講談社  2003

「生きて居ることと云うのはどのような意味を持つのですー」
ああ、まただ。
生きる意味、ではない。
生きて居る意味、ではない。
生きて居ること、だ。
この違い。言葉遊びのようだが、それぞれの言葉の意味の違い、持つ意味の違い。
ここからはじまる、京極のトリック。言葉の綾。意味の森。解釈の海。

今回の舞台は長野県。
うらさびしい立科(蓼科)の白樺湖(人造湖だとはじめて知った)のほとり、ぽつりと、いや、ひときわ威容を放ってそびえたつ洋館。
まるで要塞。
いやー遺跡か墳墓のようなたたづまい。
その館の主は50歳をこえた伯爵。
5年前、制度が変わって爵位はなくなったが、依然として、ひとびとは伯爵とよび、彼自身の生活も以前とまったくかわりない。
おびただしい鳥の剥製と、幼いころから仕えている執事、そしてメイド達に囲まれて。
その伯爵が妻を迎える。
5番目の。
5番目の事件が、起こる。
事件が。
これまで起きた4回の新妻殺人事件はいずれも未解決。
いずれも、おなじような状況で、事件は起こった。
婚礼の翌朝、新妻の死体が発見される。
亡き母の夜着を着せられ。そして、無垢のままで。
その横では、「妻は死んでない!」と泣き叫ぶ伯爵が。
今度こそ、事件を防がなければ。

という主旋律にまつわるように、儒学・儒教・仏教・などなどの葬儀典礼や死の概念をめぐる哲学、
林羅山からハイデッガー(と、言われても、名前だけは聞いたことがあるが、さっぱりわからず・・・)までが論議され。
しかも、横溝正史まででてくる!

連続殺人事件の犯人は、早くからわかる。ただ、その動機が。
からくりが。
トリックが。
いや、瑕がどこにあるのか。
で、やっぱり、この世に不思議なことなど何もないのだよ。


京極夏彦 『邪魅の雫』   講談社  2006

京極堂シリーズ、8作目
なにもしてないのに、なぜか事件に巻き込まれる冴えない作家・関口、人の記憶が見える探偵・榎木津、
そして、憑き物落としの京極堂こと中禅寺。
それ以外、巻を重ねるごとに登場人物がどんどん増えていく。
とくに、警察関係で。
事件は複雑に交錯し、絡み合う。どの人が事件関係者で、どの人が警察関係者なのか、あるいは、
だれが被害者でだれが加害者なのか・・・ ま、何人死のうが、どういう殺され方をしようが、いいんです。
やたらめったら大勢出てくる人物相関図や事件の背景を追っても、どうせ追いきれないんです。
最後の最後に、京極堂が「この世に不思議なことなど、なにもないんだよ」と、
憑き物落としをしてくれるまでは、こちとらにはさっぱりわからないのだから。
言葉の森の迷宮に迷い込む、どっちが出口なのか、果たしてこれは実像なのか、模写なのか、それとも騙し絵なのか・・・
京極堂シリーズにはまるのは、騙されるのを楽しむ、という、まったくもって自虐的なドMな読者。
しかも、膨大な智の蓄積、薀蓄を楽しむ、という面もある。

巻を重ねること8巻。ネタばらしになってはいけないので詳細は書けないが、
今回は、これまでのような、邪教とよばれる宗教がらみ、とか、人の顔を識別できない、とかいう、
特殊な社会やアッと驚くようなトリックではない。
さすがにネタが尽きたのか、エネルギーが低下したのか、衝いた「想念」も、
これまでのような独特の世界感ではなく、わりとフツー。
だから、憑き物落としも、目からウロコ、とは感じなかったし、スケール感が小さくなった印象。
  構造がわかりやすくなったぶん、道筋がすっきり頭に入って、読後の混乱が少ない、ということもある。


鯨統一郎 『九つの殺人メルヘン』    光文社文庫    1999

白雪姫・ヘンデルとグレーテルなどお馴染みのメルヘンと絡み合わせたミステリー。
舞台はいつも同じバー。僕、マスター、なじみ客が難事件を語っていると謎の若い女性桜川東子が現れる。
という設定。4人の語りで事件の謎を解く、という仕掛けが最初は面白かったが
終わりごろにはダレてきた。 最後の9章でドンデン返しはあるのだが・・・

倉橋由美子

  『パルタイ』 (文芸春秋社 1960 )

  『夢の浮橋』(中央公論社 1971) 

  『あたりまえのこと』(朝日新聞社 2001)

  『よもつひらさか往還』(講談社 2002)
 
河野多恵子  『半所有者』    新潮社  2001

妻の遺体を自宅へ搬送。関係者や息子夫婦がひきとったあと、夫は妻の遺体にかかった布をはぎ・・・
これは愛情か? 異常心理か? 異常性愛か? 嫌悪感はないが・・・
30枚の短編ではこちらが欲求不満になりそう。連作で読みたかった。




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