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[マ行]

アリステア・マクラウド 『灰色の輝ける贈り物』中野恵津子訳 新潮クレストブック 2005

短編と言うか中篇というか、8編の作品からなっている。

筆者は、カナダ北東部、突端の、第一次産業しかないような島に生まれ育ったらしい。
勉学への思い断ち切れず、炭鉱や漁業に従事したのち、大学へ進み博士となり、大学で英文学の教鞭をとっていた。
という、かなり変わった経歴の持ち主。

若い頃から慣れ親しんだ風土、地底深くもぐり炭塵にまみれる炭鉱夫の生活、板子一枚下は地獄という漁師の厳しい生活、
代々受け継いできた暮らしを守る人々。
そこから離れていく若い世代も、けっして、親の生き方を否定しているわけではない。
掘りつくされた炭鉱、明日の展望のない暮らしに、居所を見出せない若者。
祖父母の前の代は、新天地を求め、あるいは、今の土地にいられなくなって、アイルランドからの移住してきた人たち。
炭鉱に海に、しがみつくように暮らしてきた。
そして、いま、息子たちはこの土地を離れ、ケベックへトロントへ、さらにアメリカへまで住まいを移していく。
親世代に流れる諦念。子世代も、親世代を思いやる。
考えれば、親の職業と子の生き方が、これほど乖離した時代はあっただろうか。

地味で、古風な、しかし、とても味わい深い、小津映画を連想するような文学作品。



アリステア・マクラウド 『彼方なる歌に耳を澄ませよ』中野恵津子訳 新潮クレストブック 2005

一章一章が短編のように、思い出のアルバムを開いて人生の一こま一こまを回想するようにつづられている。
矯正歯科医として成功し、高級住宅に住み、いい暮らしをしている主人公が、何百キロも離れた町の場末のぼろアパートで、
ただ一人、酒に溺れ、すさんだ暮らしをする兄を訪れるシーンからはじまる。
なぜ、この兄弟は、こんなにもちがう境遇なのか。 なぜ、主人公は、こんな兄を、毎週のように訪ねるのか。
次の章からは、主人公の回想として、長い時代を越えた一家の物語が、まるで長い独白のように語られる。
自分を育ててくれた、いかにも好人物の父方の祖父母。
たった一人の娘を失ったあと、一人で、几帳面に暮らす母方の祖父。
そして、双子の妹、年の離れた兄や、従兄弟たち。
さらには、200年ほど前、スコットランドから移民してきた祖先たち。
みな、赤毛、あるいは真っ黒な髪で、特徴的な顔立ちをしている。
そして、情が深すぎて頑張りすぎる茶色の犬

なんというか・・とても粗筋など紹介できない。
いろんなシーン、いろんな事件、いろんな人物、いろんな歴史的伝承が、絡まり、重なり、
ゲール語、歌、マクドナルドの子孫たちの人生は、ときに離れ、ときに引き合うように重なり
・・・そう、重厚な交響曲のように響きあう。

イングランド、スコットランド、そのまた中でもハイランドとローランド、フランスとの関係、カナダの歴史、などなど、
わかりにくいところもないではないが、200年前、カナダに移住してきた祖先を、まるでついこの間まで生きていた人のように
懐かしく描かれているのを読んでいると、まるで親戚のおじさんおばさんのような親近感を覚える。
近代社会の中で、失われ、あるいは忘れられつつある、何か、をしみじみ思い出させてくれる至高の作品。



アリステア・マクラウド 『冬の犬』中野恵津子訳 新潮クレストブック 2004

表題作はじめ、8編。
カナダでは一冊だった短編集『灰色の輝ける贈り物』を、日本で出版するさい、分冊したもの。
量的にもすごいし、内容も深く、とても、すらすらと読む本ではない。
伝承の香り高い作品、モーパッサンの短編を思わせるような人生の皮肉・哀しみを切り取ったもの、
青春の苦い一こまを切り取ったもの、などもあり、8編、それぞれに味わい深い。
一行一行、じっくり味わいながら、一編読んでは巻を閉じ・・と時間をかけて読むべき本。

開発の名のもとに追い立てられたイギリスハイランド地方の住民は、新天地を求めてカナダへ移住した。
ほとんど人の住まない、未開の地で、自然を相手に、地をはうように働いてきた父祖たちは、
ゲール語を話し、ケルトの伝承を語り伝えてきた。
しかし、そのまた何代かたって、時代の波は、子孫たちを都会へと運んでしまった。
苦労して木を切り、開墾した土地は、耕す者を失えば、元の荒地に戻ってしまう。

この短編集には、失われていくもの、去っていくものへの敬意と哀惜に満ちている。
しかし、決して、恨みごとや繰り言ではない。過去にしがみつくものでもない。
生・死・労働・性・自然の恐怖・・・と直面して生きてきた、父祖たちの暮らしは、たしかに粗野で荒々しいものだが、
現代人よりも「生きている」という実感があったのではないだろうか。
どの国、どの民族も、人は、代々、こうして生きてきたのではないだろうか。
たとえ、その暮らし方が時代の変化に追いつけなくなったとしても、そこになにも残らないわけではない。
歴史年表にのるような事績を残さなくても、わたしたちは、あなたたちのことを忘れない。
そんな思いが、じんわりわいてくる。



L・A・モース 『オールド・ディック』 早川書房  1983

78歳!の元探偵ジェイクのもとに、昔、刑務所送りをしたサルがやってくる。
孫が誘拐された、助けてほしい、と。 ジェイクはあえぎながら走る、走る。
クソ。あいつら(若者)には歩いているとしかみえないだろうが、これでも必死で走ってるんだ。
高齢化社会がもうそこまで来ている。こういうカッコイイ探偵さんの登場もアリかも



[ラ行]

ラッタウット・ラープチャルーンサップ  古屋美登里・訳  早川書房 2007

筆者はタイ出身、アメリカ、イギリスで文学を学んだという青年。
英語で執筆され、イギリスで発表された短編7編が収載されている。

「ガイジン」
ママは「観光客の求めるものは、セックスと象に乗ることだけだよ」とガイジンを嫌いながらもガイジン相手にモーテルを経営している。
そして僕は、ガイジン観光客に一生懸命サービス・・・つまりはガイジンの女の子の尻を追いかける。
屈折した心理と行動が痛い。痛くて哀しくて、おかしい。

貧しく、仕事もなく、明日への希望も見えない若者の日常を、背伸びして兄のあとからくっついていく弟の目から描いた「カフェ・ラブリーで」
親友といっしょに徴兵抽選会に行く僕は、実は、親が裏で手を回して籤にあたらないよう工作をしてくれている。友人の視線が痛い。「徴兵の日」
視力を失いつつある母が観光旅行に選んだのは、海に細長くつきでた半島の先。日の出、砂浜の両側に見える海。母の思い、ぼくの思いが交錯する。「観光」
など、どれも、肌にまつわる湿気と熱。強い日差し、貧しさとたくましさ、繊細さとユーモア。絶妙なバランスに圧倒される。
すべてタイの若者からの目線で描かれた作品の中で、異色な、そして、この若さでよくぞ、と感心したのが、
アメリカ人男性の一人称で描かれた「こんなところで死にたくない」
妻に先立たれ、病(たぶん、脳梗塞)で介護が必要になり、タイで暮らす一人息子の世話になることになった。
息子の妻はタイ人、そして、顔立ちにまったく自分とつながるものが見えない孫たち。
そりゃあ、こんなところで死にたくないだろう。
老人を受け入れることになった妻や孫にしてみれば、そりゃあ、とまどうことばかりだろう。
ラスト、老人が自分のいまある状況を不器用に受け入れるシーンは感動。

その他、どの作品も、貧しさや病気や・・運命とか出自、という言葉では納得できない
、自分ではどうしようもない不条理なことが、たちはだかっている。
それでも、人は生きていく。運命に抗いながら、時には家族のため、ときには家族を捨て、なにかを選び、前へ進んでいく。
「ガイジン」の観光客だけでなく、「プリシラ」のカンボジア難民、「闘鶏師」のフィリピン少年、
「こんなところで死にたくない」のタイ人と結婚したアメリカ人とその父親のように、いろんな国の人が登場する。
そこで起こる摩擦や心の通い合いも含めて、虚飾を捨てた、素の、人間らしい人間が描かれている。



ジュンバ・ラヒリ 『停電の夜に』   小川高義訳  新潮文庫  2003

表題作はじめ9編。
筆者はニューヨーク在住のインド人。シニカルでちょっとビターに、そして繊細に、人生の一こまをきりとった短編集。
「停電の夜に」
舞台はアメリカ。道筋一帯が五日間だけ停電になる。夫は家で研究、流産の傷心のいえぬ妻は働きに出ている。
停電の夜、一晩に一つずつ、打ち明け話をすることに。そして、五日後・・・
意外な結末だった。お、甘くないぞ、この作家。期待が高まる。
「病気の通訳」
舞台はインド。ふだん病院で現地語の通訳をしているツアーガイドが、はじめてインドを訪れたアメリカ在住インド人の家族を案内をする。
通訳の仕事に興味をもったらしく、客の若い妻が、なにくれと話しかける。
ガイドの心が揺れるが・・・。
「セクシー」
舞台はアメリカ。ミランダは妻ある男性と恋をしていた。生活すべてが傾斜していくように甘やかな日々。
その傾斜が少しずつ元に戻っていくころ、不倫騒動の渦中にある知り合いを一晩泊めることになった。
その少年がミランダに言った。「セクシーだね」・・・
「本物の門番」「ピピ・ハルダーの治療」からは、ちょっと、モーパッサンの短編を連想したり
「三度目で最後の大陸」は、滋味があり・・・など、いろいろな味わいが楽しめる短編集だ。
異文化社会に住む、どこかしら違和感とか居心地の悪さが味になっているが、それに寄りかかってない。
「インド」という語を別の国に当てはめても、あるいは国でなく、理解しあえない人、にあてはまる普遍性。
哀感と余情が滲んでいる。


ジュンパ・ラヒリ  『その名にちなんで』  小川高義訳  新潮社  2004

子どもの頃から物静かな読書家だったアショケを見舞った、突然の列車事故。
瀕死の重傷から回復したアショケは、これまでとは別の人生を歩もうと、アメリカに渡った。
親のすすめるままアショケに嫁いだアシマは、生まれてはじめて飛行機に乗り、誰一人知り合いもいないアメリカで暮らし、子を産み、育てる。
二人は、産まれた子どもにゴーゴリと名づけた。人生の転機を与えてくれた記憶として。
しかし、思春期となったゴーゴリにはこの名がうっとうしい。(たしかに、とんでもない迷惑だろう 笑)
慎ましやかな暮らし、なにかというとベンガル人を呼んでの集まり、定期的なインド帰省・・・
どれもこれも、アメリカ生まれ、アメリカ育ちのゴーゴリには、うっとうしくてたまらない。
大学入学を機に、裁判所にいって、名前の変更を届ける。。。。。

生まれ育った地を離れ、アメリカに生活の基盤を築いてきた一世と、インドのほうが異国である二世の感覚の違い。
「おおぴらに愛情を表現するのに、プライバシーを好む」アメリカ文化と、
「自分の両親が親密に触れ合う現場を、いまだかつて一瞬たりとも見たことがない」インド文化の違い。
親の思いと子の甘えや反発。 父の、寡黙な中にある揺るがぬ強さを理解できないゴーゴリの若さ。
ある年齢にいって、はじめてわかる家族の歴史。 そして、両親への、苦い哀しみと満ちてくる感情。
「ゴーゴリ」という特殊な名前をキーワードに、アショケ、アシマ、ゴーゴリ、そして彼らをとりまく人物たちを、
髪の毛一本一本、皺の一つ一つまで描くように、精密に静謐に濃密に描き出している。

例えば、異国に暮らすアシマの立場・・・
「他人の関心を引きやすいという点でも、外人と妊婦は似ているとアシマは思う。弱者として見られながら、どこかで一目置かれているようでもある」

例えば、学生生活を満喫していたある日、名づけの由来をはじめて聞かされるゴーゴリは・・・
「突然、ずっと聞かされて育った通称を、いま父の口から発せられると、その音がまたく新しい意味を帯びて聞こえる。
大惨事と結びつけた名前であって、長い間そうと知らずに自分がその事故をあらわしていた。
「僕のことを考えるたびに、そのことを考える?」・・・「違うな」とようやく父は言う。・・・「おまえを見て思い出すのは、事故よりもあとの全部だ」

例えば、急死した父の亡き骸を引き取りにいったゴーゴリは・・・
「ついきのうの朝、このアパートで父はどんなだったろう。何をしていたら具合が悪くなったのか。調理台でお茶を沸かそうとしたか。
いまゴーゴリがいるソファに坐ったりしていただろうか。出がけに靴ひもを結ぼうとして、それきり二度を結べなくなった父を思う」
こうした、事実を事実として淡々と写しているのに、心の襞まですくいとるような描写の数々。
細やかで美しい。ひそやかでつつましやかで、乾いているのに、湿り気がある。
アシュケとアシモの、だれ一人知る人のない異国で寄り添うような暮らぶり、望郷の涙から次第に地域に自分の居場所を見つけていく道のり。
親離れした子どもにヤキモキしていたのが、やがて、少し離れたところから見られるようになる心境。
そして、ゴーゴリの、親との距離感。
異文化の中で自己のアイデンティティを求める歩み。
断ち切ろうとして断ち切れなかったルーツへの回帰。
などなど、わかるわかる、うんうん。。。しみじみ・・・
どの章を切り取っても、どの人物を切り取っても、それぞれの人生がひたひたと伝わってくる。
生きることの哀感、人生の味。




     


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