[日本文学 − ま行]
舞城王太郎 『阿修羅ガール』 新潮社 2003
三島由紀夫賞受賞
町田康が話題になるときっと舞城の名前があがる。
どこに類似点があるんだろう、よほどヘンな文体なんだろうか、と、かまえて読み始めたが、ようするに頭の悪い女子高生の饒舌体。というのが第一印象。
えーっと、粗筋は紹介しにくいが、減るもんじゃねぇだろ、と好きでもないクラスメイトと平気でラブホに行くわりに、
××されかけて自尊心が傷ついた、とか、きっとあいつは自分のいいように自慢げにしゃべるに違いない、とか、
そんなところにナイーブないまどき女子高生アイコの語り口調で、近所でおきた猟奇殺人事件とも絡みながら、
アイコの日常風景から、次第に妄想、幻想の世界にねじれていく。という仕掛け。
妄想の世界へのねじれ、といえば町田康。
饒舌体といえば町田康。というか、わたしは先に町田康を知ったのだが。
町田が、やや古風な言い回しをあえて多用し、文章のリズムを自在にかえながら崩し、語っているのに対し、
舞城は、いまどきの若者しゃべりをそのまま使って、いまどきの雰囲気を出そうとしている。
正統な日本語を踏まえたうえで崩している町田流に対し、こっちはどうこうと、
一冊読んだだけでは判断しかねるが、ま、文体にはとくに抵抗感なく読めた。
しかし、頭の悪い女子高生のわりに、神様とか性とか人間の悪と善についてとか・・・けっこう鋭いところをついていたりして、
ただ単に表面だけで判断したり、レッテルはらないで、という女子高生(書き手)の声も聞こえて、内容はけっして浅くはない。
しかし・・・桜川淡雪が出てきたとたん、わたしに中でぐっと評価値がさがった。
これって、コミックじゃん。まるまる、コミックの世界じゃん。がっくし
町田康 『権現の踊り子』 講談社 2003
表題作はじめ6編。
町田康の世界は言ってみればダメ男の愚痴よっぱらいやボケ老人の御託や妄想、
どこへいきつくのかわからない
独り言のような世界。
たとえてみれば遊園地のフライングソースというのか
フライングマシーンというのか正式な名称はしらないが、
すっくとそびえたった軸を中心にぐるぐるぐると
回転しながら乗っている椅子がぐうらんぐうらんとうねる。
うねりながら回転しているうち、上にむかっているのか落下していくのか、あるいは前にすすんでいるのか
どっちが天でどっちが地なのか、それさえわからなくなる、そのわからなさが不快なんだか楽しいんだか、
この世界が正常なのか狂っているのか、そういう自分は、ええっとどっちなのだ。べらんめえ。ぎょんべらむ。
と唱えているうち、いつのまにかフライング椅子は軸から離れて宙を飛んでいる。
とてもパスティーシュはできないが、この眩暈感。ぐねぐねうねり感。すぽーーんと飛ぶ浮遊感。
ワンセンテンス1ページ半もの饒舌体と、いきなりの体言止め。
独特の語感が脳髄にしみこんでしびれさすのだ。ぎょんべらむ
町田康 『実録・外道の条件』 角川文庫 2004
パンク歌手にして、俳優にして、作家である町田康が経験した事実が下敷きになっているらしい”実録小説”。
いわゆる「業界」には、とんでもない外道たちがうごめいている。
その常識はずれ、会話の噛みあわなさ加減、思い込みと過剰な自信に振り回されるマチーダ氏。
例によって例の如くの饒舌文体に笑わされながら、次第に背筋が寒くなるのは、これがけっして「業界」だけの特殊な現象ではないからだ。
「一つには、やはり教育の問題が挙げられる。
画一的な教育はよろしくない、なんてことを仰る人が増え、じゃあ、ひとつここは一番、個性、英語で申し上げればパーソナリティー、
すなわち、各自の固有の特性を伸ばす教育がよろしいんじゃないの、なんてことになって、みな自由奔放に個性を伸ばそうとし始めたのはよかったが、
人間の餓鬼なんてものはみな似たようなもので・・・
到底、伸ばすべき個性などとは言えぬ、しかし、個性は伸ばさねばならぬので、それでも頑張って個性、個性とみなで叫び続けるうち、
個性があらぬ方向へ暴走し始めたのである。・・・・
つまり、個性の教育は子供に、我慢・辛抱・忍耐なんてちゃんちゃらおかしいよ、そんなものは個性を抑圧するだけでお百害あって一利なし。
やりなさい、やりなさい、こんなんでも、あんなんでも・・・」
マチーダさん、あんた、パンクかと思ったら、しごく真っ当だよ。
さすが、わたしが見込んだだけのことはあるよ。
町田康『パンク侍、斬られて候』 マガジンハウス 2004
町田康作品の粗筋を紹介する、という行為自体、野暮の骨頂だが、あえて書くとすれば、
掛十之進なる牢人が、己の就職活動のため「各地で騒動を起こしている腹ふり党という危険な新興宗教が
まもなくこの藩にもやってくる。はやく食い止めねば大変なことになる。対策は拙者にお任せあれ」と、大げさに申告。
重臣内藤某は、それが虚偽であろうとなかろうと、藩内の権力争いに利用しようと掛を召し上げる。
実際にはすでに鎮圧されていた腹ふり党の残党をさがしだし、「やらせ」で、ちょっとだけ騒動を起こそうとしたら・・・
とまあ、こういった内容ではある。
が、しかし、町田康の真骨頂は独特の文体と、ぐねぐねおおきなネジか螺旋のように話がずれ、
妄想の世界へとねじれていく作品世界。
やがて次第に、読み手の足元がいつの間にかぐらつきはじめ、常識とか論理とか価値観とか・・・
それぞれが手すりのようにつかまっていた軸がひん曲がってしまい、そして最後に、ポーン!
と想像もつかない虚妄の世界へ抛りだされる。その快感。
っつうか、理屈言ってないでさぁ、みんな一緒に腹をふろうよ。あばあばあばば。
文体は自由自在、融通無碍。科白の面白さに抱腹絶倒。
独特の文体にのって、虚構、虚妄、大ボラ、嘘八百の曼荼羅世界を繰り広げてみせるが、
筆者は酔っていない。
筆者は笑いながら踊りながら、鋭く人間を観察している。それは例えば重臣や、重臣の用人、小役人や、
自意識ばかりたかく、自己防衛に汲々とするくせに、責任をとろうとしない若者の生態描写にあらわれている。
あるいはまた、「・・・・・・なぜなら大衆は理解できないできごとに遭遇した場合、
無批判にこれを信仰するか激怒するかどちらかの反応しか示さない」といったドキンとする記述にも見られる。
しかし、単に新興宗教とか権力争いとかいった表層的な事象を風刺、批判しているわけではない。
町田の見ている世界はもっと深い。一番面白く、ドキンとさせられた場面は、大臼という猿のありようだった。
人より劣っているとだれもが思う猿にこう言わせているのだ。
「あるとき僕は・・・・・・自分と世界以外に言葉というものがあって、それまで生きてきた世界以外に
言葉によってできたもうひとつの世界があることに気がついたんです。しかもそのふたつの世界は
なにかによって串刺しになっている。その串は言葉を喋る人間が言葉を持ったことによって
抱えこまざるを得なくなった思念であることにも気づいたよ」
す、すげー。すげえ深い哲学的言葉。それを猿に言わせるなんて・・・絶句
こういった警句があちこちにさりげなく散りばめられているのだから、笑いながら唸ってしまう。
これまでの町田の作品世界は、ラストに爆発するとはいえ、グズ男の愚痴(ヒロシです、のような)や、
些細な日常の中にある、きわめてマイナーで、どこまでもマイナスにむかうような内面世界だった。
今作は、マイナスにむかって溜め込んだエネルギーを一気に放出した感がある。
これから町田がどこへむかって歩いていくのか、目が離せない。
町田康 『告白』 中央公論新社 2005
この作品は、明治26年、城戸熊太郎と谷弥五郎が村の有力者一家、親族10人を惨殺し、山に立て篭もり、
最後は自決するという、河内音頭の一節にも唄われている(らしい)実際に起きた事件を下敷きにしている。
殺人者の心理を描いた小説としてまっさきに思い出されるのは、ドストエフスキーの「罪と罰」ではないだろうか。
学生ラスコーリニコフが、高等な自分には、下等で悪辣な金貸しの老婆を殺すことが許されているという
勝手な理屈のもとに老婆を殺すが、やはり良心の呵責に耐え切れなかった。
大雑把に言ってしまえば、そういう話。
この作品では、“理”あるいは“神の存在”が全篇を貫いている。
『告白』に流れているのは“情動”であり“想念”であり、なにより、“感情と言葉の乖離”が全篇を貫いている。
殺人者は、いきなり、殺人者として生まれてきたわけではない。
それなりに、生い立ちや、周囲の環境や、本人の性格や・・・いろいろなファクターが、ある時は不幸の連鎖のように絡まった、
その結果の必然として、あるいは偶発的に、事件を起こす。
町田は、城戸熊太郎が、人一倍思弁的なのにそれをうまく言葉に表現できない、思想と言葉が乖離してしまう、
それでますます自意識や妄想が膨張し、周囲と自分を合わせることができない人間と設定している。
だれでも、心で感じていることとちがうことを口にしてしまう瞬間、あるいは、
自分のことを周囲にどう受け取られているだろうかと気にしてしまうこと、あるよね。
熊太郎の場合、それが過剰にあり、なおかつ、思いを言葉に表すことができない質なので、
想念がどんどん自分の中でふくらんでしまい、コントロールできなくなる。
『告白』は、そういう熊太郎の、ものごころついたころから、
36歳で事件を起こし、自決するところまでの想念の動きを、ずーーーーーと追っている作品なのだ。
章立てなしで、676ページ。
ふつう、これだけの長編なら、当然、いくつかに章立てするだろう。
読み手は、一つの章がおわったところで、ほっと息を吐き、読み終えた場面を反芻し、
これから始まる章に思いをめぐらせる。
そういう、息を吐くところがない。
息を吐くこと、熊太郎から離れることを拒否する小説なのだ。
そして、河内弁。
一口に関西弁といっても、京、大阪、神戸・・・それも、下町、商家、などなどで微妙に違うことは知っている。
なかでも河内弁は、泥臭くて、あまり品がいいとはいえない、という印象がある。
その河内弁で語られる熊太郎の思弁、妄想、想念がなんというか。。。
理屈ではなく、肌にまとわりつくというか、絡みつくというか、無意識下に沁み込んでくるというか。。。
読んでいて、河内弁の独特のイントネーションやリズムが、東南アジアのガムランかケチャのように、
耳の奥底に響き、神経をしびれさせる。
熊太郎のありようには共感できないし、屁理屈や自己コントロールのできなさ加減は世間では通らない。
しかし、共感とか理解とか常識を越えて、理の正否を越えて、熊太郎がわたしのなかに沁み込んでくる。
圧倒的な存在が、たしかに、そこにはあるのだ。
そう、いってみれば
”よごれっちまったかなしみに きょうも ゆきさえ ふりかかる”
そんな悲しみが、薄汚い泥と雪がとけあったような悲しみが、じわじわと沁み込んでくる。
自分と周囲がうまく合わせられない若者、とか、自分を理解してもらえない苛立ち、を描いた小説は、最近、とくに多く見かける。
それが昨今の風俗なのであろうか、甘えんじゃないよ! と言いたくなるときもあるが、本作は、そんな表層的な周囲と自分の齟齬ではなく、
もっと根源的な人間の存在そのものの闇、自我と世界のあいだに横たわる絶望的な暗闇、を描き出そうとしている。
町田康は言葉の使い方がすごいと、かねがね思っていたが、彼は言葉の祈祷師。言葉を通して、読み手に憑依する町田康。
『くっすん大黒』から『きれぎれ』までの一連の作品では、ダメ男の愚痴→妄想→結界を飛び越える という世界。
その世界をどんどん極めていくのかと思ったら、なんか、いきなり、すごい世界を拓いてしまったのだな。
うわーーーーっ、うまく言い表せない。
わたしの中で、想念と言葉が乖離しているっ!
皆川博子 『猫舌男爵』 講談社 2004
表題作はじめ「睡蓮」「オムレツ少年の儀式」など5編。
たとえば、表題作。猫舌ってなんだ? 男爵ってなんだ? 長靴をはいた猫のパロディ?
それとも「ほらふき男爵」みたいな話?と普通は思うだろう。
しかも、表紙には猫男爵と可愛い人間の令嬢が描かれ、ご丁寧に帯には意味ありげなコピーが・・・
ところが・・・やられた! 見事にはめられてしまった。
しかも、やられた!は、それだけで終らない。5編はそれぞれ傾向もジャンルもまったく違うことに驚かされる。
あるものには皮肉と諧謔、あるものは妖気、毒気が溢れ、そしてある作品からは痛ましさが滲み出る。
皆川博子の作品はどれも、ある種の”クールさ”、さらにいえば読み手を煙にまく”妖気”、”毒”がある。
若い作家の中では小川洋子が近いかもしれない。
小川洋子が可愛らしい女狐妖怪とすると、皆川博子は、もう雌が雄かも見分けがつかないくらい
歳ふりた鵺のような老獪さと言おうか。(これは誉め言葉である!)
いや、お見事!
三崎亜記 『となり町戦争』 集英社 2005
小説すばる新人賞受賞
町の広報に「となり町との戦争のお知らせ」がのった。
開戦日 9月1日
終戦日 3月31日(予定)
開催地 町内各所
まるで、下水道改修工事か、道路の拡幅工事のおしらせのような・・・
しかし、どこで戦争をやっているんだろう。第一、なんのために?
どこにもそれらしい気配はないのに、広報に記載された戦死者の数字は増えていく。
となり町を通り抜けて通勤するぼくに「戦時特別偵察業務従事者」の辞令が交付される。
やがて、業務の拡大に伴って、となり町戦争係りの香西さん(女性)とぼくは、
となり町にある分室(アパートの一室)に新婚夫婦として移り住むことになった。
戦闘員はこちらの町では志願兵や徴収兵、アルバイト。となり町は公社が請け負っているという。
町内の説明会では、戦時負担金と損害補償についての説明。
と、下水道整備事業か、あるいは、地場産業振興育成事業とでも言った語と置きかえたくなるような展開。
どこからどこまで、まるで役場の日常業務のような戦争。どこにも戦争らしいリアリティはない。
作中にはたしかに、「戦争」がある。らしい。
しかし、ぼくも香西さんも役場の人たちも、戦争というリアリティを持っているようには見えない。
唯一、会社の上司だけがリアリティを持っているらしいが、それもはっきりとは書いてない。
とにかく、不思議な小説世界。
反戦平和をテーマにしているわけではない。
そもそも、筆者自身に戦争というリアリティがないのだろう。
たとえば、となり町との戦争を差別とかイジメとか、あるいは。。。とにかく、現代の社会事象に置きかえて読もうと思えば、そう読めるかもしれない。
戦前のように、うかうかしているあいだに軍部の力がいつのまにか強くなり、社会全体が。。。ということを警告している、と読めないこともない。
でも、そういう深読みは危険だろうと思う。
では、どう読み取ればいいのか・・・
とまどいをとまどいとして受け止めるしかないのではないか。そんな気がする。
読み手の中にいつまでも「とまどい」が残る、なにかが残り続ける、気になる作品だった。
宮城谷昌光 『玉人』 新潮文庫 1999
「雨」「指」「風と白猿」「桃中図」「歳月」「玉人」の6編。
宮城谷の作品は前々から読みたいと思いつつ、なかなか手が出せなかった。
とりあえず短編からはいってみた。うまい! でだしの数行で、すっと物語にはいる。
数語で人物の背景から気性まで描き出す。色艶があり、余韻がのこる。
いや、お見事。
宮城谷昌光 『子産』 講談社文庫 2003
紀元前500年という大昔の、いろいろな大国や属国が群雄割拠していたころの話だが
建物や衣服や生活様式などなど、なんの説明もない。
人名・地名・・・やたら画数の多い漢字が出てくる。
性格の記述でさえ、見たこともない熟語だ。
チンプンカンプンで難しい。
が、いったん最初のハードルを越えれば、あら不思議。眼前に作品世界が広がる。
そして、表現というか技術というか、短編との違いが興味深かった。
短編では、筆者は人物のすぐ側にいる。
長編では、筆者は天の高さにいて、作品世界全体を遠景から見渡している。
といっても、高みの見物といった冷ややかさではない。
かといって、熱いかといえば熱さは感じない。感じさせないよう抑制している、というべきか。
例えば、司馬遼太郎は作っている、熱く語っている。読んでいて、人物のむこうに
司馬の存在をヒシヒシと感じる。
宮城谷は・・・山のような資料を諄々と説いているかのようで、筆者の温度や存在を感じさせない。
いわゆる近代文学に必然とも言うべき心理描写、内面描写など眼中にないといった感じ。
一見、
小説としての作りがないように見える。しかし、たしかに宮城谷はそこにいる。
この感覚をなんといって形容したらいいのだろう・・・
作中に名前が出てきた『重耳』など別の作品を読めば、もう少し宮城谷の世界がわかるかもしれない。
宮城谷昌光 『花の歳月』 講談社文庫 1996
信心深いわけではないし、まして運命論者ではないが、
人の一生というのは、なにか人間の及ばない力によって動かされている、
と感じるときがある。
いくら表面をかざっても、なにかの拍子に、その人の人間性があきらかになることがある。
特に不遇のとき、どう生きるのか・・・諦めるのか、宿命を恨むのか、ジタバタするのか・・・
そこで人は試されているのかもしれない。
どんな過酷な運命でも真摯に受けとめ、自分を見失なわず、周りへのいたわりや謙譲を忘れず、
凛と生きる人には、いつか、天も光をさしてくれる。
この主人公、猗房がそうであり、その夫となる代国の王、そのまた母の薄夫人、さらに猗房の弟広国
・・・苛烈な戦乱の世に翻弄されながらも、まっすぐに生きる人は、天もみそなわすのだ、
と清々しい気持ちにさせられる。
出だしの数行でいきなり引き込まれ、ラストの数行で思わず涙がにじむ。
文章も清冽でたゆみがない。読後、背筋が伸びる。
宮城谷昌光 『夏姫春秋』上下 講談社文庫 1995
大小さまざまな国が
盟約を結んだり破ったり、攻めたり攻められたり、ややこしい関係だった春秋時代。
鄭国の姫・夏姫は生まれもった美貌のゆえに、国と国の力関係や陰謀に利用され、波乱にみちた生涯をおくる。
どうやらこれまでは、美貌と色香を武器に男どもをたぶらかした悪女というイメージが定着していたらしいが
わたしは、そういうイメージそのものを知らないので、予見なく読めた。
たしかに、出会う男どもはみな魂を抜かれ、非業の死を遂げる。
夏姫自身も、時には息子と家名を守るため、
心に蓋をして身を売るような境遇に置かれる。
宮城谷は、男どもが夏姫が持つ「風」に心を奪われ、
あるいは利用しようという下心から
身をほろぼすのであって、夏姫の罪ではない、という解釈で描き出している。
夏姫が登場するシーンは意外に少ない。しかし、その描写の妖しく、なまめかしいこと!
宮部みゆき 『堪忍箱』 新潮文庫 2001
人の奥底にある触れてはいけない冷たさ。あけてはいけない箱。江戸物短編8篇。
宮部みゆき 『鳩笛草』 講談社文庫 2000
古いビデオテープ。それは、幼いころ事故で両親をなくした智子の記憶の封印を解くカギだった。「朽ちてゆくまで」
同じ社の目立たない淳子が声をかけてきた。「わたしはあなたの凶器になれる」「燔祭」
女性刑事貴子は、人の心を読むことができる特殊な能力を持っている。「鳩笛草」
いずれも超能力者の哀しみ。選ばざるをえない生き方。
宮部みゆき 『今夜は眠れない』 角川文庫 2002
中学一年生のぼく、両親との3人家族。ごく平凡な家庭。のはずだった。
ある日突然、弁護士がやってきて「お母さんに命を助けられたという男性から遺贈の申し込みが」
「遺贈って、いくら?」弁護士は片手をひらいた。ご・五億円?!
それから始まるてんやわんわの大騒ぎ。のあたりはさくさく読めた。面白かった。
ところが、後半、ダレた。
事件の謎解き、伏線、いちおう納得はできるが、胸におちない。
不快、とまでは言わないが、なにかしら落ちつかない気分が残る。
なぜだろう・・・この両親にシンパシーが持てないから?
人の心を試す、というのがいや? 大がかりな仕掛け(?)のわりに、些細な動機だから?
面白くしようとして、文章が上滑り? パスです。
群ようこ 『かもめ食堂』 幻冬社 2006
映画『かもめ食堂』原作。
映画と若干ちがうところもあるにはあるが、ほとんど、そのまんま。
ただ、主人公三人の、はるばるフィンランドにやって来た背景がしっかり説明してある。
群ようこは、エッセイはちょくちょく目にしているが、まとまって読んだのは初めて。
文学的に凝った描写ではない。どっちかというと、そっけない。
でも、なんか、すっとぼけてて、対象とほどよい距離感があって、乾いていて、いいなあ。
森絵都 『永遠の出口』 集英社 2003
家と学校と通学路が世界のすべてだった子ども時代。
自分のいない場でのこと、その瞬間を逃したら「永遠」に取り戻せないことに、
歯軋りするほど焦燥感にかられていた主人公・紀子。
大人になれば、この世は取り返しのつかないこと、取りこぼしたことどもで溢れていることを知る。
筆者の自伝風だが、もちろん、創作だろう。
しかし、その時代の地方都市のそのまた郊外にある学校の雰囲気、その年代特有の、教室の、家の、
通学路の、友人宅の・・・空気が
皮膚を通してひたひたと濃密に迫ってくる。
誕生日会、クラスわけ、姉妹の関係・・・よくぞここまで、そのときの「気持ち」を記憶し、表現したものよ。
森絵都でなければ、ならでは、の世界。
中学入学式を直前にした春休み、友人と「千葉」のデパートへでかけた「小旅行」の章が秀逸。
後半は、ややありきたり。というか、森絵都でなくても・・・という気がする。
森博嗣・作 佐久間真人・絵 『猫の建築家』 光文社 2002
猫は建築家だった。何度か生まれ変わったけれど、そのたびに建築家になる。
この猫は「美」とはなんだろう。「形」とは「機能」とは「価値」とは・・・と思索する。
この本は佐久間の絵がまずあり、触発をうけた森が作品世界をつくったそうだ。
つまりコラボレーション。絵と文。それぞれ別個に独立した世界があり、
それぞれが互いに響きあって一つの不思議で魅力的で哲学的な世界を作り上げている。
森谷明子 『れんげ野原のまんなかで』 東京創元社 2005
司書の文子が勤務するのは、小さな小都市のそのまたはずれに新設された図書館の分館。
あまりに利用者が少なくいのが悩みのタネというくらいヒマな毎日。
そこで起きた小さな謎・事件は、すべて本にまつわることがカギとなっている。
日常ミステリーを解きつつ、先輩に対する独り相撲的片思いからの卒業、そして新しい恋の予感という、
主人公・文子の成長物語もサブストーリーになっている。
第一話 まるでかくれんぼのように閉館後も居残ろうとする小学生たちが、それも次々あらわれた。
なぜ、子どもたちは・・・という事件を解くカギが、『クローディアの秘密』というのもうれしい。
まあ、『クローディア』愛読者には、早くからわかってしまうが。
第二話 図書館を経由する市の循環バスが開通したおかげで、病身の深雪さんが図書館に足を運ぶようになった。
深雪さんが好んで見ていた写真集に、絵本「白雪姫」の表紙のコピーがはさまっていた。
そこに込められたメッセージは・・・万葉集がヒント。
第三話 高価な画集や写真集の延滞。それは実在の、しかし、
図書館利用者ではない人物のカードで借りられたものだった。
第四話 こんな辺鄙な場所に図書館が出来たのは、土地を寄付してくれた大地主・秋葉のおかげ。
秋葉さんは、まるで店子の心配をするように世話を焼いてくれる。
大雪で帰宅できなくなった文子は、秋葉さんの古くて広い屋敷に泊まり、子どものころの雪女話を聞かされる。
第五話 大地主秋葉さんは、付近の野原のススキを刈り取りレンゲを植えた。
おかげで、レンゲ野原と図書館は、セットとして脚光を浴びることになった。
が、その野原には、ある男の過去の思い出が埋まっていた。
この話には『床下の小人たち』が絡んでいる。
ミステリーといっても殺人や凶悪事件ではない。
新米司書が、図書館で起きた小さな謎を通して人間の奥深さを知る、というほうに重点がおかれている。
諸田玲子 『犬吉』 文芸春秋社 2003
悪法として名高い、犬公方綱吉の「生類憐れみの令」
中でもお犬様を人間より大事にして囲い場に保護した、という話は、ちょっと信じられないが、10年近くつづいていた。
囲い場で犬の世話をするのは、みな、一癖も二癖もある、わけありげな男たちばかり。
主人公のあたいも、いくら犬好きとはいえ、囲い場でくらすには、それなりのいわくがある。
すべて、あたいの一人称で語られているが、どうやら、吉原で育ち、社会の底辺を生きてきた女らしい。
赤穂浪士の吉良邸討ち入りは、江戸から遠く離れた囲い場(いまの中野区)にも、
あっというまに伝わり、それぞれに鬱屈を抱えた男どもの心を狂わせた。
あらくれ男どもによる猛犬惨殺から、集団レイプ、口がきけない愚鈍な老人、実は・・・
最後には、あたいが一目で胸キュンしたお侍依田さまといっしょに、あわや殺されそうになって・・・
という、ジェットコースター的事件の展開に、以前、可愛がっていた雷光の思い出や、
犬役人や世話係りの実態、当時の世相などが織り込まれている。
しかも、これが、たった一日のできごとなんて!
あたい、依田さま、その他の人物は、ややステレオタイプ的ではあるが、キャラも立っているし展開が手馴れている。
生類憐れみの令を、これほど正面からとりあげた作品って、これまであっただろうか。
いくら犬を大事にといっても、いくら、世話係りがおおぜいいるといっても、
こんなに一箇所に何万匹も集めては、不衛生だったろうなあ。
読んでいて、獣の匂いが行間からたちこめてきそう。。。
