NF・エッセイ・評論・コミック



あ行  ローレン・アイズリー 磯田道史  今西乃子  内田百閨@ 上野千鶴子  
    遠藤雅子  小倉千加子  大庭利雄  小田豊二

か行  レイチェル・カーソン 金森敦子 川上弘美 倉橋由美子 ボブ・グリーン

さ行  榊原喜佐子 佐藤正午 佐野眞一 斉藤美奈子 澁澤龍彦   美帆・シボ  清水勲 杉浦日向子

た行  田口英爾 太宰由紀子 富岡多恵子  

な行  長倉洋海 シルヴィア・ナサー 

は行  萩尾望都  半藤一利  ドリス・ビルキングトン ビル・ブライソン 

ま行  水内喜久雄  宮台真司  

や行  山川健一 山口文憲 吉川正義 吉田直哉 米原真理

ら行  チェット・レイモ

 

[あ行]

ローレン・アイズリー『星投げびと』   千葉茂樹訳  工作舎 2001

ローレン・アイズリーという人の業績もなにも知らずに読み始めたが、
「科学の従事者には2種類のタイプがある。ひとつはカタツムリの眼のなかであれなんであれ、そのデリケートな器官に飛びこんだ光にであれ、宇宙の神秘のまえで驚異の念をいだきつづけている心あるタイプだ。
もうひとつのタイプは、ものごとを切り刻むことにあまりに忙しく、大いなる神秘までも、頭をかすめる価値すらない些細なものにしてしまう極端な還元主義者だ。」
筆者は、まさに前者で、その思索は(深い意味の)宗教的哲学的、ある点では虚無的で、人類の未来についてメランコリックでさえあった。
霧の中、方向を見失ったカラス。物をつかむ尻尾を持つサル。花(被子植物)が今の世界を作った章。
アメリカチョウゲンボウの愛。・・・見る者が見れば世界はなんと不思議と神秘に満ちているのだろう。
科学のむこうの詩。豊かな想像力とスピリチュアルな力。

磯田道史 『武士の家計簿』     新潮新書  2003

加賀前田藩の下級武士ながら、御算用者(経理担当)としてソロバン一本、筆一本で仕え、 ついには
主君の秘書官になるほどの信任を得、明治維新後は、海軍の会計官僚として異例の出世をした、
磯田家の膨大な文書をもとに、武士(士族)の家庭生活をわかりやすく解説した書。
「働き」というより武士という「身分」にたいして与えられる給与である禄高「○石取り」の内容。
家計に占める交際費の多さから、武士としての身分や対面を保つための「身分費用」の意味。
結婚、妊娠、出産、生育に関する行事から費用、などなど、経済の面から、
武士の家庭生活をわかりやすく、解説した書。 歴史・時代小説が好きな方には、お薦め。

今西乃子『ぼくたちの生きる理由(わけ)』   ポプラ社  2004

ホスピス病棟に勤務する医師と患者を通して、子ども読者に「死」「命」「生きる意味」を問いかける書。

治療の成果を追う余り患者がなおざりにされがちな医療現場のあり方に疑問を抱いた小澤医師は、ホスピス医となって10年。
末期患者がおだやかな最期を迎えられるように、できるだけ、患者の言葉に耳をかたむけ、心をほどくよう努めている。
末期ガンに冒され、自らホスピスに入院してきた横溝さんは、死を前にした絶望、迷い、苦しみから、次第に死を認め、自分の弱さを認め、生きる意味を見いだし、おだやかに最期を迎えた。
この手の書にありがちな、押し付けがましさた、ベタベタした感傷を抑え、抑制のきいた筆致で描く。
医師と患者、双方を、距離をおいてしずかに見つめる筆者の姿勢が好感。
子ども読者でなく、大人が読んでも、じんわりとした感動をよぶ。

内田百閨@『百關助MU』  講談社文芸文庫 2002

随筆といいつつ、どこまでが事実でどこまでがホラでどこまでが創作なのか・・・
渾然一体として、すべてが内田百閧フ世界なのだろう。
「サラサーテの盤」はゾグリとする掌編の味わい。
我儘で勝手で食えねえジジイだが、どこか愛敬がある。また読んでみよう。

上野千鶴子・小倉千加子・富岡多恵子  『男流文学論』ちくま文庫 1997

吉行淳之介・島尾敏雄・谷崎潤一郎・小島信夫・村上春樹・三島由紀夫をフェニミズムの旗手たちが斬る。
一部不快・一部納得・一部快哉。

遠藤雅子 『スペシャルオリンピックス』  集英社新書  2004

長野で知的障害者のためのスペシャルオリンピックス(以後SOと略)が来年ひらかれること、そのプレ大会が ついこのあいだ催されたという記事を新聞で読んだ。
オリンピックやパラリンピック以上に、SOを支えるためには 大勢のスタッフがいるだろうし、
さまざまな配慮や、事前の教育が必要だろう。 どんな組織でどう運営されているのだろう、とこの本を手にした。
まず、前半の紙面の多くを割いて、ケネディ家とSOの誕生について紹介している。
それを読むと、知的障害者を社会がどうとらえてきたかという点で、戦前から現代までの社会史の一面を見るような感がある。
続いてSOが日本にどう伝わったか。いったんは根づき成長しかけた組織が、なぜ挫折をむかえ、そこからどう克服していったか、という日本での歴史にはいる。
広島取材で何例も見たように、 どんなにすばらしい目標や信念を掲げていても、その考えを広げるには困難を伴う。
組織や団体を運営することがどんなに困難なことか。現実は厳しい。
しかし、その一方で、縁としかいいようのない人と人のつながりが道を開いていく。
その中で人は大きく成長していくことを、この書でも見ることができる。

最後の方で、具体的な事例をあげて、今現在SOに関わっている人々を紹介している。
ソニーの盛田氏の長男である盛田秀夫の言葉に胸打たれた。
「多くのパラリンピアンには"健常者"の時代があった。それに対して知的障害者として 生まれた人間には
健常者であった時代は存在せず、そのため比較する"対象の自分"がない。
だから、彼らは不幸でもなんでもない」
「知的障害をもった子供は健常者と同じ能力をもっている。ただ、能力の配分が違うというだけ。
親は心配のあまりそうした事実を見失いがちで、自分の子供に健常者と変わらぬ、 ときにはそれ以上の能力が備わっていることを、残念ながら最後に気づくのが親なのだ。
その意味で、わたしの気持ちは子ども以上に親たちに向かっている。
親たちがSOを通じ、練習の成果を示そうとするわが子、 達成感に笑みを浮かべるわが子、
誇らしげに胸にメダルをさげているわが子を見れば、どれほど安心するだろう」

著書全体をとおして、余分な感情や甘さを抑えて事実だけを淡々と紹介しているのが好感。
SO長野大会の成功を祈りたい。

小倉千加子 『セックス神話解体新書』ちくま文庫 1995

深く植え付けられたジェンダー意識がどこからくるかを説き起こしたフェミニズム論。
1986年の講演録をもとに起こしたものだから若干古いし、一面的であることも否めない。
こういった啓蒙活動により、レイプ裁判・セクハラに対する意識など改善されつつあることも
多い一方、いまだ解決していない点も多々あり。

大庭利雄  『終りの蜜月 大庭みな子の介護日誌』   新潮社   2002

大庭みな子の旦那さんが書いた介護日誌だが、よくある闘病記録や介護記録にみられるような重さや、悲壮感、
ひとりよがりの押し付けがない。自分をも含めて感情に走らず冷静に観察している筆致がとても好感がもてる。
利雄さんは、もとエンジニアで、19年程前リタイアし、以後、大庭みな子の秘書をやっていたらしい。
つまり、理系の分析力、みな子の仕事や人間関係への理解、そして、主夫的感覚も併せ持っている。
もちろん、発病直後の緊迫感、その後も一進一退を繰り返す病状や記憶の乱れ、
さらに意識を取り戻してからもおかしな言動・・・ 病人に揺りまわされ気持ちが乱される
日々の記録には迫ってくるものがあるが、どこかユーモアがあり、なにより愛情深いのだ。
みな子が利雄にすっかり任せきって甘えている様子が微笑ましい。
たとえば、入浴。
不自由になったみな子を風呂にいれるのは、最初は二人・三人がかりでようやく、なのだが、次第にコツを覚え、ときには利雄が一緒に入って洗うことができるようになる。
そのシーンなど。夫婦ならではの健康なエロティシズムと、みな子の可愛らしさが微笑ましい。
そして利雄は、――トイレに付き合い、下の物を始末し、風呂に入れたり、ふつうの生活なら 夫婦の間でも任せないようなことをしている――あいだにこれまでの夫婦関係とはちがう結びつきが生まれていると感じる。
そして、この一体感を ――これはみな子が倒れたことによって 与えられた特異の関係であり、こんな関係を味わえるならば、天に感謝すべきなのかも。――とまで言いきる強い連帯感を抱く。

これはなまなかに吐ける言葉ではない。いろいろな意味で衝撃を受けた。

遊びやゲームで運動機能を快復させるリハビリを、みな子がいやがるシーンは可笑しかった。
――「学者と芸術家はリハビリにもっとも適さない人種」という説はどうやら本当のようだ。
大方の人は・・・這いずってでもと努力するが、この特殊な種族は、諦観を持つのも容易だし、
自分のしたくないことを正当な意味付けなどして拒絶する才能も持ち合わせている」――  あはは。

病院のあり方、介護のあり方、などなども含めて、いろいろ考えることの多い本だった。


小田豊二聞き書き『どこかで誰かが見ていてくれるー日本一の斬られ役・福本清三』  集英社文庫 2003

ラストサムライのsilent Samuraiで、世界にその存在感を知られるようになった大部屋俳優福本清三の聞き書き。
もちろん、テープをそのまんま起こしたわけではなく、小田の編集・構成が入っているのだが、 まるで自分が聞き手であるかのような臨場感というか空気が伝わってくる。
いまどき珍しい、控えめというかシャイ。人を掻き分けて目立とうとは思わない、と言うが、ちゃんと、 それなりに監督や主演俳優に存在を覚えてもらおうという努力や精進はしている。していながら、 「しょうもない話で」「情けない」「あほらしぃて」と、自分をしゃれのめす。
プロ意識とよき家庭人。なんだか、可愛いなあ。福ちゃん。
「映画は人の痛みでできている」など、映画に寄せる思い、現状への警告は、襟を正して聞くべし>映画人



[か行]

レイチェル・カーソン『センス・オブ・ワンダー』新潮社  1996

死を前にして、幼い甥に生命の尊さ・自然の営みに眼を向ける道筋を語る

金森敦子 『”きよのさん”と歩く江戸六百里』バジリコ 2006

江戸中期、町民文化が盛りを迎えた文化年間、今の山形県鶴岡の豪商の妻、清野が供と同行者との三人で旅に出る。
その旅日記をひもときつつ、もう一つ書き留めた出納帳、さらにその前後に残された数々の古文書などでわかりやすく解説した書。
一介の、それも、江戸、上方を遠く離れた田舎にすむ商家のおかみさんが道中で目についたことがらを書き留めたものだから、
文学的価値があるわけではない。が、それだけに、生き生きと伝わるものがある。

鶴岡を3月に出て、福島郡山などを抜け、日光に寄り、江戸では一週間以上滞在し、芝居見物や吉原などで遊山、
山のような買い物をし、東海道を下って伊勢に参り、京大阪でまた遊び、琵琶湖ぞいに福井金沢に北上、
さらに善光寺に参って、7月、帰郷。なんと、108日(3ヶ月半)、600里(2352キロ)というスケール。
好奇心旺盛、食欲旺盛でタフ! そして、ふんだんに使える資金がなければできない旅である。

行く先々で餅を食べ、瓜にかぶりつき、酒を飲み、宿の飯盛り女(夜は売笑する)や花魁の服装髪型に興味津々
出会った人々のお国言葉に興味をもったり、土地それぞれの暮らしぶりに関心を示したり、と、すごい好奇心とバイタリティ!
江戸時代は封建的、女性の地位が低い、男尊女卑だの身分制度だのと、暗いイメージが植えつけられているが、どっこい、庶民はたくましい。
女性だってたくましい。 あっぱれ、清野さん。



川上弘美  『あるようなないような』  中央公論新社 1999

第一エッセイ集

倉橋由美子  『あたりまえのこと』  朝日新聞社 2001



ボブ・グリーン 『DUTY  デューティ』    訳 山本光信  光文社  2001

副題に「わが父、そして原爆を落とした男の物語」とある。
筆者は、アメリカでこの人を知らない人はないというくらい著名なコラムニスト。
従軍経験のある父の死期が近づき、筆者は、しばしば故郷へもどり、生い立ちや家族への思いなどを吹き込んだテープを聞く。

父は、家庭の事情で大学を中退し、働かざるをえなかった。
大恐慌で不景気な時代。職を転々とする。そして、戦争。召集。訓練。
父は、軍隊で多くのものを得た。自分を成長させてくれたのは軍隊だったと、いまだに誇りに思っている。
しかし、戦時中の思い出を声高に語ることもなく、退役軍人会にも参加していない。

筆者が駆け出しの記者だったころ、父は
「町で、広島に原爆を投下したエノラ・ゲイの機長、ティベッツを見かけた」
と、やや興奮気味に語った。

賞賛も非難も、好奇の目も、すべてを飲み込み、沈黙を通していたティベッツは、
筆者の「第二次世界大戦世代の人は自分たちのことを自慢したりはしない」というコラムを読んで、自分のほうから取材を受ける。
筆者は、死の床にある父を看病し、父の生きてきた道に思いをいたしながら、
父と同じ年の、そして、父よりもっといろんな意味で有名人であるティベッツにインタビューをする。
ときに残酷な質問にもティベッツは、冷静に答える。

筆者は、ティベッツとの会話を通して父を知ろうとする。父を語ることで、ティベッツの内面に近づいていく。
しかし、戦争について、当時の社会情勢、若者の気持ちなどインタビューを重ねるごとに、
知識としてはふえていくが、聞けば聞くほど混乱してくる。その感覚が、すごくわかる。

タイトルのDUTY(任務。職務。本分)が重い。
ティベッツも、筆者の父も、そして、わたしの父も、任務を忠実に遂行したのだ。祖国を守るため。
読後、人生。死。戦争。世代。祖国。。。。。複雑で、深い感慨がわいてくる。



[さ行]

榊原喜佐子  『徳川慶喜家の子ども部屋』    草思社  1996

筆者は徳川慶喜の孫にあたる。といっても、慶喜の死後に生まれたから、実際に会っているわけではない。
徳川慶喜には大勢の子があったが、跡継ぎは筆者の父である七男の慶久。
母は有栖川宮の息女。
二女(長女は早世)が高松宮妃喜久子。その下に兄。 筆者は年の離れた三女で、年子の妹がいる。
小さい頃から文を書くのが好きだった筆者はたくさんの日記を書き溜めていた。
そこから、今の時代にわかりやすいように構成し、まとめられている。
どっちを見ても、徳川本家やら各宮家やら、すごい名前がぞろぞろ出てくる一家の浮世離れした暮らしぶりは、まことに興味深い。
なんと!敷地3千坪。建坪千坪あまりの小石川小日向の住まいに、使用人や家庭教師、医師、さらに刑事の住まいまである。
が、奥とは塀で仕切られているし、筆者たちが足を踏み入れることはなかった。
奥に出入りできるのは、医師、家庭教師、お次とよばれる女中や、家族にそれぞれ一人ずつにつくお付き、それに事務方の者たち。
と、正真正銘のお嬢様。
しかし、その広い庭で、少女たちは天真爛漫、おてんばに転げまわって遊んでいた。
窮屈な身分ゆえこそ、屋敷内では目いっぱい自由にさせようという配慮だったようだ。
母の死後、筆者たちが徐々に自立し、社会に適応した暮らしに変わっていく過程、昭和15年に結婚して以後の、
だれもが巻き込まれる時代の渦に翻弄された苦労は、具体的なことには触れてないが行間から察せられる。

たしかにすごい生活なのだが、巻を通して、筆者の生まれ持った前向きな性格、育ちのよさからくる矜持が見えて、すがすがしい。



佐藤正午  『ありのすさび』    岩波書店   2001

1989年から2000年にかけて季刊誌に発表したものを中心にしたエッセイ集。
エッセイだからストーリーがあるわけではないが、何気ない日常の身辺から、ふわふわと捉えどころがないまま、 どこへ話が進むのかと思っていると、いつのまにかちゃんと着地をしている、という「技」を楽しんだ。
いまどきの、若いとはいえないけど、老いを考えるには早い年代の、ある生き方のスタイルが感じられた。

佐野眞一  『宮本常一が見た日本』 NHK出版  2001

「旅する巨人」の続編。前作が渋沢敬三との関係・宮本の暮らしや心理に重心をおいたのに対して、 これは宮本の足跡を佐野がたどる形になっている。
それぞれの仕事について、宮本がどういう気持ちや背景であったかがガイドされる。
佐野自身がより前面にでて、佐野が捉える宮本像を読者が後追いしている印象が残る。

澁澤龍彦 『エロティシズム』  中公文庫 1984

まず感じたのはとても明晰で読みやすい文章だということ。
ギリシャの哲学者から宗教的儀式から、フロイト、キンゼイ、それ以後まで、性、とくに官能に関する
古今の研究者の論を噛み砕いて披露してくれる。
でもなあ・・・・こういうの読んで決定的にわからないのは、女であるわたしには、男の、 ある特定の
生理や心理がどうしてもわからない。それと、いろんな事物が性のシンボルとして解き明かされるのがどうも。
シンボライズされているものがわかるのもあるけど、そこまでなにもかもこじつけなくても、と思ったり。

美帆シボ  『フランスの空に平和のつるが舞うとき』  柏書房  2003 

フランス在住平和活動家、美帆シボの、これまでの歩みを綴った書。
留学先で知り合ったミシェルとの結婚、ミシェルとヒロシマとの出会い、から始まって核抑止論が圧倒的に支持されている フランスの中で、まるで固い岩盤を小さなノミでうがつような
平和活動の積み重ねから、 ピースアニメの制作、そして現在までの二人の歩みを綴っている。

やまとなでしこ的でありながら、フランス社会にとびこむ、ある種の強さ。
文化や習慣の違いにとまどい、自己主張の強いフランス人の中で自分のアイデンティテイをどう確立させるか・・・
流産の悲しみにひたっていた美帆が、 やがて外へ目を向け、自分の足で立ち上がるまでの過程は、女性の生き方として共感。
自分のことを語った本にしばしばみられる押し付けがましさがなく、重層的に、冷静に語られ、好感。

清水勲編  『ビゴー 日本素描集』  岩波文庫 1986 明治の風俗を描いたビゴーの風刺絵を清水勲が解説。
皮肉だけでなく暖かい目で、暮らしの中まで入り込んで庶民のくらしを活写。 小伝・年表も併記。

杉浦日向子  『大江戸美味草紙』  新潮文庫 2001

食生活をキーワードに江戸の庶民の暮らしをひもとく

斎藤美奈子 

『妊娠小説』(筑摩書房 1994)

『文章読本さん江』(筑摩書房 2002)

『男女という制度(21世紀 文学の創造F)』(斎藤美奈子・編 岩波書店 2001)

『文壇アイドル論』(岩波書店 2002)

『文学的商品学』  (紀伊国屋書店  2004 )


[た行]

田口英爾  『清水次郎長と明治維新』    新人物往来社  2003

明治維新を立役者側から描いた人物伝や歴史小説はいっぱいあるが、これは実在の博徒、のちに更正して 地域の振興に尽力した清水次郎長というアウトローの側から生き生きと描いている。
次郎長と縁の深い寺の住職の子孫である筆者は、登場する実在の人物や子孫に 話を聞いて育ち、
長じては寺に寄贈された山のような資料を読みといている。
読んでいて、親戚のちょっと変わった叔父さんの立身伝を聞いているような親近感がわいてくる。
博徒時代の、浪曲や映画でお馴染みの名前もゾロゾロでてくるが、勝海舟をはじめとする 徳川慶喜周辺の人物もゾロゾロでてきて、ちょっとわくわく。
後書きを見ると、一代記を上梓したあとも新たな資料を発掘し、補筆してこの本を書いているらしい。
それだけに筆者のなみなみならぬ思いも伝わる。読み物としても、また、明治維新前後の歴史の一面を、 地方から見た歴史資料としても、面白かった。

太宰由紀子  『ゆっくりゆっくり笑顔になりたい』    スキージャーナル社  2003

スペシャルオリンピックス(SO)の解説書。
日本での歴史、関わっている人、ボランティアの意識調査、組織や運営、親の声、簡単なストレッチ講座まで、
これ1冊読めばのSOのすべてがわかる。豊富な写真がアスリートの一瞬の笑顔を写している。
縦組みと横組みではページをめくる方向が逆なのに、おなじ方向でページを組んであるのが読みにくい。



[な行]

長倉洋海  『マスードの戦い』河出書房新社 1992  

アフガニスタンはソ連の侵攻により国土を荒らされ、政府軍は壊走、全土はタリバーンに抑圧されている。
統一戦線を組織するため精力的に山岳の村々を歩き回るマスードの魅力に惚れこんだフォトジャーナリストの、 数次にわたるアフガン取材の記録。
長旅で寝食を、時には危険をともにしてこそ捉えることができた兵士たちの一瞬の笑顔。
どこの民族だろうと共通の暖かさ。好奇心。お茶目な一面にホッとしつつ、 平和ボケした日本からは想像できないような過酷で複雑な状況に茫然。

シルヴィア・ナサー  『ビューティフル・マインド』      新潮社  2002

ゲーム理論の経済学への貢献を認められノーベル経済学賞を受賞した数学者ジョン・ナッシュの人生を描いたNF。
社会性がまったくなく、人との関係を築くのが下手、傲慢で猜疑心が強く、ジコチューで、 人を人とも思ってないくせに自分は人に認めてもらいたがっている鼻持ちならないヤツ。
そのかわり、数学については天才的ひらめきを持っている。
数学って、こつこつ積み上げてゆく学問だと思っていたが、ナッシュは天才的ひらめきで解を発見し、 それからそこへの道筋を組み立ててゆく人。そもそもの回路が人とは違っていたらしい。
そんな主人公が、30歳を目前にした、傍目には”まさにこれから、前途洋洋”という時期に精神分裂病を発症する。
”自分は神の左足である””エイリアンからのメッセージを解読するよう選ばれた””南極の皇帝になる”・・・・
幻聴と妄想。宗教と政治と数学がごちゃになった思考。奇矯で異常な行動。
しかも、いわゆるボケとは違い、記憶や行動に狂いが生じるわけではなく、 本人なりの論理や理由があっての行動。
それこそ、別人格(エイリアン)に乗っ取られたような状態なのだ。そこが読んでいて痛ましい。
2度の強制入院と30年以上にわたる寛開と再発を繰り返す苦しみの日々。
一般的には精神分裂病は治らない、と思われているらしいが、ジョン・ナッシュは徐々に、 まるで薄い膜を一枚一枚はぐように妄想世界から現実に戻ってくることができた。
若いころの天才的思考には及ばないが穏やかに学問の道を歩むようになり、若いころできなかった 人間関係のよりよい構築も出来るようになった。
ノーベル賞という評価もさることながら、魂の遍歴の末に穏やかな収穫の秋を迎えられたのが、読んでいてホッとする。

数学のことはさっぱりわからないので、かなりの飛ばし読みだが、ゲームと経済との関係や、
ゲーム理論を地で行くようなノーベル選定委員の討議や駈け引きのあたりは面白かった。

天才の孤独を痛ましく感じつつ、つくづく凡人でよかった、と思う凡人の幸せ。



[は行]

萩尾望都『百億の昼と千億の夜』  原作・光瀬龍    秋田文庫  1991

コミック類は苦手だが、萩尾望都は好きで、数冊読んで(見て?)いる。
しかし、これは・・・なんと説明したらいいのだろう。
仏教もキリスト教もギリシャの哲学者も(さすがにマホメットは出てこないが)ごちゃになって出てくる。
しかも、キリストはかなり薄っぺらな人物で、ユダの方がいいキャラだし・・・
それはともかく、阿修羅の求める真の道とは。。。。宇宙とは。。。神とは。。。最後までたどりついて茫然。
光瀬龍の原作を萩尾望都が解体し、咀嚼し昇華させたらしいが・・何回も読み返さないと難解。

半藤一利  『それからの海舟』  筑摩書房  2003

「それから」というのはもちろん、西郷隆盛との談判で江戸城を無血開城に導いて以後を指す。
江戸を戦乱から守り、徳川幕府の終焉を見届けたあと、海舟はなにを思い、どう生きたか。
薩長嫌いを自認する筆者が、江戸時代、徳川方という滅ぼされた者たちへのオマージュとともに、 その後の勝海舟を生き生きと描いている。
明治維新の表舞台にあがった人物たちは、「勝てば官軍」で、とかく美化されているが、実際のところ、 ちょっとした歯車のかみ合わせや時の勢いで、あれよあれよというまに、世界でも珍しい無血クーデターが 成功してしまったのであって、当事者たちに維新後の明確な設計図や青写真があったわけではない。と、いうのが筆者の見解だし、わたしもそう思う。
政権を手に入れたはいいが、それまでこんな大きな組織を動かしたことのない芋侍や
頭でっかちの癖に世間知らずの公家たちが右往左往している中、勝海舟がどういう役割を果たしたか。
江戸っ子としての意地とは。慶喜、西郷隆盛・・・の関係は、といったあたりを小気味よく解剖している。

ドリス・ビルキングトン 『裸足の1500マイル』 メディアファクトリー 2003

先住民アポリジニーが自然とともに生きてきたオーストラリアに、船にのった白い精霊がやって来た。
白い人は、勝手に家を建て町を作りフェンスを囲い、自分たちにだけ通じる法律を作り、 さらに、白人とのあいだに混血の子どもが産まれるようになると、同化教育のために、 子どもだけ引き離して施設に強制収容しはじめた。
武器を持たないアポリジニーは、苦い諦めと服従と悲しみに、我が身を打ちつけることしかできない。
しかし、隔離施設に送られたモリー・デイジー・グレイシーの三人の少女は、自分の心の声に従った。
帰ろう。お母さんのところへ。
少女たちは追っ手から身を隠しながら、ウサギをつかまえたり、途中の農家で食べ物を分けてもらったりしながら、 1500マイル(本州を縦断する距離)を7週間かけて歩きとおした。
そのサバイバルの日々をモリーの娘である筆者が書き起こした記録。
筆致は淡々としてどこかユーモアさえ漂っている。この距離のおき方に好感。

ビル・ブライソン 『ドーナッツをくれる郵便局と消えゆくダイナー』 朝日文庫  2002 

イギリスで活躍しイギリス人の妻をもつ作者が、20年ぶりにアメリカに居を移した。
彼の目に映るアメリカのおかしさ。愛しつつも思わず文句を言い、こきおろしつつも愛してやまない。
皮肉とユーモア、語り口が絶妙。


[ま行]

水内喜久雄・編 「一編の詩があなたを強く抱きしめる時がある」   PHP研究所 2007

若者の自殺、度をすぎたいじめ、結果の重大さを考えない犯罪、命の重さと現実認識のギャップ・・
こういったニュースに接するたびに、歯がゆい思いを抱いたり、若者特有の潔癖さ、もちこたえる力の弱さ、世界のせまさなど、
今も昔も同じなのだろうか、大きく変わってしまったのだろうか、などなどいろいろ考えさせられる。
しかし、だからといって、わたしになにができるということもない。
おそらく、だれにも、こうという解決策があるわけではないだろう。
一つ言えるのは、言葉の持つ力を信じようということくらい。
青春の曲がり角で、迷っている、うなだれている、立ち止まっている若者の心に、
生きる力、絶望から立ち直る一歩を届けることができれば。どれか一編でも心にぴたっとくる詩があれば。
編者は、その一心で、この詩集を編んだ。

心の弱っているとき、手にとって読んでみてください。



宮台真司  『まぼろしの郊外』     朝日文庫  2000

1995年から1997年にかけて、いろいろな雑誌に発表した論をまとめたもの。
テレクラから酒鬼薔薇まで、だから、 目新しさはない。
しかし、振り返って検証することによって、今の社会現象の出発点なり曲がり角なりが見えてくる。
日本人の行動(特に性行動)をしばっていた「内的規範」である倫理や、「外的規範」である道徳が 社会の変化にともなって、あっというまに崩れていった。その道筋を追い、背景にある社会を分析し (主に)女子高生たちへの厚いフィールドワークの結果を検証することから、 表層現象の後ろにあるものを解き明かしている。

論旨はわかる。共感できる。・・・しかし・・・倫理や道徳律が崩れた、あるいは変わってしまった現代、これからの人たちは「終わりなき日常」をどう生きていくか、売春や性行動への敷居が低くなった
少女たちが「自己決定能力」を養うためには、一体、どうしたらいいのか、呆然と頭を抱えてしまう。。。
のは、わたしが、村社会による道徳律や良妻賢母教育がまだ機能していたころに育って、 一番「割りを食っている」世代だからだろうか。



[や行]

山川健一  『幕末武士道、若きサムライ達』   ダイヤモンド社  2004

まず、武士道、大和魂について、本居宣長、新渡戸稲造などの説をかみくだいて解説。
徳川の安定した時代となり、戦闘要員から「人の上に立つ者」へと存在意義が変わっていったとき、サムライたちは、道義、軌範、美意識、そして精神的バックボーンとしての武士道をどう確立していったか。
歴史上の人物たちの行動や思想、生き方、意地、などを紹介しつつ、戦前、国威発揚のため軍部に利用され、ゆがめられてきたこれらの言葉の出典を洗い直し、本来の意味を問い直し、現代に照射している。

筆者は武士道精神について、
人間が考えに考えた結果が思想であるとして、だがそれは相対的なものにすぎない。
それより大切なのは、この思想に「信義」という血が通っているかどうかという問題なのだ。
「信義」とは誰かの信頼を裏切らないということであり、私利私欲に走らないということだ。
誠心誠意誰かを愛するということだ。
それらが「生き方のスタイル」や「人間としての美意識」に、すなわち武士道というものに昇華されるのだ。
武士道とは相対的な思想をこえた倫理であると定義づけている。
たとえば、勝海舟、西郷隆盛、坂本竜馬、あるいは近藤勇・・・
立場や思想はそれぞれ違っていても、彼らは互いにサムライとして相手を認め合い、通じるものがあったのではないか、とも。
「とにかく、敵も味方もなく力を合わせて新しい時代を切り拓くのだ。
そうでなければ日本という国が滅びてしまう、というギリギリの場所で彼らは働いた」
つまり、私をこえて公(日本)のためになにができるかと考える。 そこに志があるから、サムライなのだ、と。

多くの人物や思想家をとりあげて解説しているが、筆者は、だれか特定の偉人に全面的に肩入れしてはいない。
たとえば尊敬する江藤淳や司馬遼太郎に対しても、ニュートラルな立ち位置を保っている。
混乱した現代にあって、宗教にかわる道義として、精神のあり方としての武士道を再認識したい、という筆者の思いとスタンスは充分伝わった。

山口文憲  『団塊ひとりぼっち』     文春新書  2006

”団塊の世代”というものを、まず歴史的背景から解説し、全共闘の面ばかり強調されるが、しかし、あの当時の大学進学率率、 その中で実際ヘルメットをかぶってデモに参加した率を考えれば、それはまったくの少数派「ひとりぼっち」であることを証明し、 だれでもが知っている、しかし、ああ、あの人もその世代だったかという、たとえば、りえママと藤田憲子さん、森進一とフォーク歌手たち、 などなどを例にあげ、時代性と個人性、さらに団塊の世代のセックスライフまで検証し、 とまあ、団塊の世代論と、団塊世代への応援歌・・・なんだろうか。

というより、ええっと・・・わたしは個人的に多いにうけた。
というのは、自虐的に(?)韜晦的に(?)、各章で自分にネタをふっている筆者とわたしは、幼馴染。小中高の同級生なのです。

吉川正義 『自閉症・学習障害を追いかけてー母の目、記者の眼』  ぶどう社  2002

筆者は、読売新聞社記者として早くから自閉症問題をおいかけ、ときには個人の立場から障害児たちの生きる場作りに 関わってきた。
その20年ほどの軌跡の中から、 @まだ社会での理解が薄かったころの、わが子を手にかけてしまった母。
A社会の中で子どもの生きる場を求めるため、学校に、社会に、
理解と認知の道を開いていった母(しかし家庭は壊れた)。
B近年になってからの、地域と共生できるコロニーを建設するまでの家族グループの苦闘。
など、時代を追って数例を紹介しつつ
「隔離され、かわいそうがられ、護られて危険を避けて暮らすのか、苦しみながらも当たり前の暮らしを目指していくのか」
と、ふつうの人の目線で、社会と障害者のあり方をわかりやすくひもといた本。
当事者ではない、医師や教師ともちがう、そのほどよい距離感がこの本を読みやすくしている。

吉田直哉 
『夢うつつの図鑑』 
 文芸春秋     1986

NHKの看板ディレクターだった筆者の、柔らかな感受性と明晰な頭脳、少年のような負けん気なところもうかがえる名エッセイ。インカ・ナガサキ・キノコ・ガウディ・・・

『透きとおった迷宮』  文芸春秋  1988

カンボジア難民・ウイーンの世紀末的美・ヒットラー・対蹠地・廃墟・・
マクロからミクロへ、通行人の会話から、むこうから見える景色から・・・
好奇心と探究心と深い思考

米原真理  『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』   角川文庫  初出2001

筆者は、1960年から1964年、9歳から14歳までの一番多感な時期、プラハにあるロシア学校(各国の共産党から派遣された党員の子女が通う学校)に在籍していた。
1980年代後半、ペレストロイカからソ連崩壊など、(希少な)同時通訳として引っ張りだこの毎日だったが、筆者は、思春期をともに過ごした友人たちの消息が気になってきた。
1990年代なかば、筆者は、ほとんど手がかりもないまま、プラハへ飛ぶ。
尋ね尋ねて、
@ギリシャ人の娘で、飛びぬけておませだったリッツァ。
A熱烈な共産主義信奉を口にするくせに、豪邸に住み、特権階級のような暮らしをしているルーマニア人のアーニャ。
B日本の絵画に憧れるユーゴスラビア人のヤスミンカ。
の三人の現在を確かめる。

尋ね人を捜し当てる過程、記憶にある少女時代の自分と彼女たち、現在の、過去の、政治状況や歴史的背景、 そして、数十年たって邂逅した彼女たちの暮らしと意識が、縦糸と横糸のように複層的に交錯しているが、 筆者の距離をおいた、客観的で、しかも愛情のこもった筆致で、まるで物語を追うように読みすすめられる。
すらすらと読みながら、内容は重く、深い。
同時通訳という仕事は、両方の言語や文化を知り、瞬時に反応しなければならない。
もちろん、中立であらねばならないが、ときには余計な摩擦や誤解をさけるための配慮も必要になるだろう。
そういう、筆者の姿勢と人柄、頭のよさが滲み出ている。



[ら行]

 チェット・レイモ 『夜の魂』   山下友夫訳   工作舎  1988

「星なげびと」「夜の国」と同じプラネタリークラシクスの一冊。 レイモは天文学者である。
筆者の目の前で子どもがスケボーに乗った少年に弾き飛ばされた。
瞬間、世界は凍りつく。まるでスローモーションのように時間が止まる。
しかし、宇宙では無数の星たちは生まれ、育ち、ぶつかり、爆発している。沈黙の中で。

神は「はー。はー。はー」と七つの笑い声とともに世界を創造した。
最新の宇宙論によると、150億年前、めくるめく閃光とともに宇宙が誕生したらしい。
一秒の一兆分の一の一兆分の一の1000万分の一の後、素粒子が生成・消滅をはじめ・・
頭がくらくらする。でも、それって、神が「はー。はー。はー」と腹のそこから笑ったってことだよね。
なんだか嬉しくなる。

夜空を観察する技術の半分は視覚の問題で、半分は想像力の問題。
そうだよね、なんだってそうだよね。いま問題になっている企業の不祥事だって、それが消費者にとってどうなのか想像する力があれば、こんな問題にならなかったんじゃない?
うーん、どうもわたしの思考回路は生臭いほうへむかってしまうなあ。

あまりに現実離れしたスケールの距離や時間の世界に、読み始めは人間の卑小さに 心が行きそうになったが、読み進むうち、なんだか気持ちがおおらかになってきた。
もっとも、「星表」は赤経、赤緯、固有運動、視線速度、スペクトルタイプなどなどの数字の羅列だそうだが・・

わたしも天の河の子供にはちがいない。夜はわたしの母である。わたしは星屑からできている。
わが肉体のすべての原子が星の中で作られた。宇宙が存在へと爆発したとき、すでに鳥は林を 恋い、魚は淵を思っていた。・・・

これは科学書ではなく、ぐるっと回って神話の世界。おおいなる想像の世界。
ちょっと絵本『よあけ』ユリー・シュルビッツ作・画  瀬田貞二訳 福音館 を連想した。



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