ときには夜空を(2002.9/3)


    わたしは文系人間だ。理科一般、まず苦手意識の方が先に立つ。物理だの量子力学だの、
    聞いただけで脳の回路がシャットアウトする。化石だの宇宙だの、今現在の生活に関係のない学問には
    さらさら興味はない。草花や虫、鳥などの生き物にもあまり関心がわかない。
    どっぷり現実につかった暮らしをしているわたし、どこからどう見てもリアリスト。夢想家からはほど遠い。

    そのわたしが、なぜか、自然科学系の学者のエッセイ(ネイチャーエッセイというらしい)を読んでいる。
    最初に読んだのはローレン・アイズリーの『星投げびと』
    新聞日曜版の書評欄で、なぜか気になった本だ。本屋を捜してもない。切り抜きを手帳にはさんで持ち歩いた。
    しばらく忘れていたが、なぜか気になる。これは嗅覚としか説明のしようがないが、気になる。
    書評を見てから半年以上たって、図書館で見つけ、さっそく借りて読んだ。第一章でKOされた。
    じつはかなり難しい章もあった。途中で何度も挫折しそうになった。でも、どうにも読み捨てる気になれなくて
    懸命に読み通した。エッセイだから説明が難しい。
    いままでどっぷり現実につかっていたわたしの観念というか視点というか・・・
    とにかくわたしの世界にはないものが、そこにはあった。

    大地の下には何十万年もまえからの地層の積みかさねがあり、そこにネアンデルタール人、
    花を飾って葬送する人たちがいたということは、頭のなかの知識としては知っていた。
    でも、現在の暮らしのなかでネアンデルタール人を隣りに座っているように感じることが出来る人。
    夜の闇に息づく生命を、何億年もの時空をこえた世界を、肌で、心で、それよりもっと深いところで
    感じ取ることができる人。
    ・・・こういう人がいるんだ。こういう世界があるんだ・・・
    で、きゅーさんちの掲示板に書き込んだら、アイズリーの別の本『夜の国』を紹介してくださった。
    これは図書館になかったから書店に注文して購入した。
    ケチなわたしが、手にとってみることもなしに高い本(2000円以上)を買うというのは滅多にない。
    しかも、なんと!すでに読んだ『星投げびと』まで注文した。たぶん、こんなことは初めてのことだろう。
    『夜の国』を読んで、また惹きこまれた。
    「人類学、科学史、考古学、古生物学、といった幅広い領域に深く通じている科学者」
    というアイズリーの業績を、わたしは知らない。知らなくてもかまわない。
    このエッセイからはアイズリーの思索の断片がみえる。
    なんて澄んだ目を持っているのだろう。なんて孤独な魂だろう。
    わたしにとって、科学というものは、冷たいもの、合理的なもの、容赦なく分析するもの、
    割り切れる答えを求めるもの・・・だと思っていた。
    そういう実際的な科学の向こうに、もっと詩的な世界があるということを、初めて教えられた気がする。

    で、今度は別の著者・チェット・レイモによる『夜の魂』を読み始めた。
    レイモは天文学者らしい。これまた、何億光年という世界。太陽系が二万個もはいる星団・・・・
    距離感に対する感覚が崩れる。

    朝起きて朝食を食べ洗濯をし掃除をし。。というリアルタイムな暮らし、狭い町に住むわたし。
    アイズリーやレイモを読むと時間の感覚、距離の感覚、空間の感覚が、完全に狂う。
    しかし、レイモにしろアイズリーにしろ、なんと詩的な表現だろう。
    真の科学者は、人智の到底及ばない自然の摂理の前に畏怖を感じ、さらに奥にひそむ神聖なものへの
    渇仰と畏敬を全身で感じ取るのだろう。
    甘ったるいメルヘン、薄っぺらなロマン、ではないもっと深遠なロマンの世界、土足で踏み込んではいけない
    神の領域とでも言うべき空間がそこにはある。・・・らしい。

    思い出したことがある。
    レイモやアイズリーの業績からは遠く離れて生きた田舎教師の話だ。
    わたしの高校時代。そのころは、いまほど文系理系で選択授業がわかれていなかったように思う。
    2年で地学の授業があった。たしか、週に一コマだったと記憶している。
    いまでもそうだろうが、理系でも地学で受験する生徒は少ない。まして文系の生徒には地学の授業は息抜き。
    単位を落としさえしなければよし、だった。
    その先生はうらなりのような細長い顔で、ちょっと頼りなげな、気のよさそうな先生だった。
    「二学期の最初の授業は先生の独演会だぜ。」「ずっと一人でしゃべるから。」
    というのが先輩から代々伝わっている伝説だった。となりのクラスではもう最初の授業があった。
    「ねえ、どうだった?」 興味津々である。友人は、笑うでもなく、小馬鹿にするでもなく微妙な顔をしている。
    なんだろう?? なんの話をするんだ? しかも授業全部つぶして、だぜ。
    で、いよいよわたしたちのクラス。
    その先生は、教壇にたつと
    「今日は君たちに授業ではなく、話をします」と断ってから、淡々と語り始めた。
    誠実に真摯に、人生について、生き方について、学ぶということについて、語り始めたのだ。
    わたしの母校は一単元が、たしか105分か110分という長い授業だった。
    最初はあっけにとられ、半ば呆れ、半ば揶揄する気分でいた生徒たち(一番生意気盛りで反抗的な年ごろの)は
    次第にその先生の姿勢にうたれ、静かに聴き入っていった。
    100分を超える授業がおわったとき、わたしたちは微妙な笑みを浮かべて顔を見合わせた。
    それは最初に予想していたテレでも、カラカイでもない。ましてアザケリでもない、不思議な笑顔だった。
    認めるには照れくさいが認めざるをえない。生きるってロマンなんだ。と感じた笑みだった。
    うらなりとしか見えなかった田舎教師でも、ロマンを持って、人生を真剣に生きているんだ。と打たれた。
    もう話の内容などすっかり忘れてしまった。忘れているが、その先生が若者に託したロマンの香りだけは忘れない。
    まさしくこの季節、科学とはつきつめればロマンなのだと知った17歳の教室を、まざまざと思い出している。

    星団の名を冠した同人に所属しながら、わたしは恥ずかしいことに、
    オリオンの三ツ星と北斗七星くらいしか見分けがつかない。

    ときには夜空を見上げようか。







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